金研設立40周年記念対談
歴代所長鼎談、金融研究所リサーチの責務
第2回:マクロ経済学の未来
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第2回:マクロ経済学の未来
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2022年10月、日本銀行金融研究所は設立40周年を迎えました。これを記念して、研究所に所縁の深い学識者の方々との対談企画を行ってきました。今回は、過去に金融研究所長を務められたお二方をお招きしました。大妻女子大学の翁邦雄特任教授(京都大学公共政策大学院名誉フェロー)と慶應義塾大学の白塚重典教授です。
初回は、インハウスのシンクタンクとしての金融研究所のあり方に焦点をあてました。第2回はマクロ経済学研究の現状と課題を取り上げます。
マクロ経済学の袋小路

副島(金融研究所長) 今回はマクロ経済学研究にフォーカスをあてたいと思います。金融政策の研究はマクロ経済学の一分野ですし、経済成長やインフレはマクロ経済学の対象そのものです。それゆえ、マクロ経済学の発展は中央銀行にとっての大きな関心事です。
1970年代ごろまではIS・LMモデルが、学界・政策当局を含めて広く用いられていました。その後、マクロ経済学の主流は動学的確率的一般均衡(Dynamic Stochastic General Equilibrium、DSGE)モデルに置き換わり、中央銀行でもDSGEモデルの取り込みが進んできました。
DSGEモデルは、代表的家計の効用最大化・企業の利潤最大化というミクロ的基礎付けを持ちます。合理的行動に基づく一般均衡モデルなので、生じている現象間の因果性もとらえやすいです。1990年代から2000年代を通じて、価格の粘着性や、市場が完全でないことの歪みなど、より現実的な想定の取り込みも進みました。
にもかかわらず、グローバル金融危機や名目金利のゼロ制約、デフレ均衡や複数均衡、格差の問題、財政のサステナビリティ、人口動態と経済成長、通貨の存在意義など、DSGEモデルが対処に苦しむ問題はまだ多く残されています。
そもそも、完全情報や、遠い将来に亘った最適化行動という超合理性、常時の一般均衡の成立を前提としたDSGEモデルを発展させ続けていくことがマクロ経済学の進むべき未来なのか疑問に思うことがあります。
もっと象徴的にいえば、グローバル金融危機時に「だれもこの危機が来ることをわからなかったのでしょうか?」と問うたエリザベス女王のエピソードです。女王に「はい、DSGEモデルの研究を続ければきっと予測・対処できるようになります」といえるのでしょうか。
翁(敬称略) たしかに現在は、少し行き詰っている感がありますよね。正確な金融危機の予測を含めDSGEにはできないことが多いです。一方で、DSGEに代わるモデルはいまのところ存在しません。この意味で、マクロ経済学には大きなブレイクスルーが待たれていますが、正直なところ、現時点では「誰」が「どの領域」でパラダイム・シフトをもたらすのか、まだ推測できません。
副島 もちろん個別の発展はあるのですが、今後、それらが大きな潮流に変化していくかというと、いまひとつ確信が持てないというか、しっくりとこない気がします。
例えば、年齢や所得・貯蓄などの家計間の異質性を想定した金融政策の分析モデル(Heterogeneous Agent New Keynesian: HANK)が考案されるといった発展はみられます。ただし、これがゲーム・チェンジをもたらすかというと、少し物足りない印象を受けます。
翁 自分は、「行動経済学の知見がどのように取り込まれるのか」という点に関心があります。行動経済学者の草分けの一人でノーベル賞を2017年に受賞したリチャード・H・セイラー(シカゴ大学)は、著書(『行動経済学の逆襲』) [1] の中で、ケインズは、行動経済学的アプローチの先駆者だったが、残念ながら行動学的アプローチがいちばん影響を与えていないのが、マクロ経済学だ、しかし、金融政策や財政政策という大きな問題は、どの国の厚生にとっても極めて重要であり、そうした政策を賢明に選択するには、ヒューマンを理解することが欠かせないと、述べています。ただ、副島さんも指摘されたように、1980年代以降のマクロ経済学の潮流は代表的家計の効用最大化という合理的行動を前提としたミクロ的基礎付けをマクロモデルに与えることだったわけで行動経済学的人間像とはベクトルの向きが異なるだけに、課題に向き合いにくいです。
白塚(敬称略) マクロ経済学は、ルーカス批判 [2] による呪縛にとらわれていて、それを打破しなければ、先に進めないと思います。一般均衡や合理的な経済主体の想定、ミクロ的基礎づけを「過度に」追い求めた結果、論理の構成としては綺麗だけれども、実用性が損なわれてしまっているように思います。そこからのちゃぶ台返しは、なかなか難しいですよね。
対して、ミクロ経済学は、研究対象とする経済現象に集中できるので、マクロ経済学のように一般均衡に縛られる必要がありません。それゆえ、行動経済学の知見などのイノベーションを取り込みやすく、学問的な進歩という意味で、マクロ経済学に水をあけることに成功したのではないかと考えています。マクロ経済学者に問題があるわけではなく、学問としての対象領域の違いが背景にあるわけです。
一般均衡を外してしまうと、どう不均衡しているかで様々な想定が可能になり、不均衡で何でも説明してしまうモデルになりかねません。外しにくい仮定なのです。
副島 DSGEモデルに対するアンチテーゼになりうるかどうかは判りませんが、新しい試みはいろいろ登場しています。ロバート・J・シラー教授(イェール大学)は、ナラティブ経済学というコンセプトを打ち出しました [3] 。経済現象の物語(ナラティブ)、平易に言うと通説が個人や企業、国家、政策当局者の意思決定に強く影響するという説です。
ビッグデータやオルタナティブ・データ分析のように、現実を詳細に観察することで、これまで見落とされてきた人間行動や社会経済のふるまいを発見するというチャレンジも活発化しています。デジタル化社会の到来により可能になったアプローチですね。そこから、何か一般性をもった原理が演繹できるかどうかは未知数ですが、とにかく新発見にあふれています。

白塚 経済学において、ナラティブとかストーリーが大事だというのは、そのとおりだと思いますね。経済学は因果関係やメカニズムを重視する学問なので、こういったアプローチは馴染みやすい分野でしょう。
翁 ナラティブ・アプローチは行動経済学の一種ともいえるので関心を持ってみていますが、発展途上で、残念ながら、まだまだアドホックな分析に感じられます。新しくて興味深い分析角度ではあるものの、汎用性の高いツールにはなっていない印象をうけます。今後の発展に期待したいと思います。
副島 ビッグデータ分析についてはどのように思われますか?
白塚 ビッグデータの集計カバレッジを踏まえると、ビッグデータ分析はまだ局地戦の域を脱していません。サンプル数を増やしたとしても、その集計対象が特定の財やサービスの利用者に限られることも多く、サンプル・バイアスが残ってしまいます。こうした分析の結果から集計対象以外も含む「全体」を語ることにはためらいを覚えます。
例えば、価格が100円上がった場合のパンの支出量の変化から得られた弾力性を、タクシー支出の弾力性に当てはめる訳にはいきません。では、膨大な財やサービスごとに弾性値を力まかせに調べ上げて、そこから一般物価にどのようなインプリケーションを見出せるのか。そんな難しさも存在しています。
この課題を克服しない限り、マクロ経済学への含意を生み出す段階にはまだギャップが残っていると言わざるをえません。もっとも、現段階では、必ずしもマクロ経済学に対する完璧な含意を見出せなくてもよいと思いますし、部分的な示唆を与えてくれるだけでも十分だと思います。パンの価格弾力性自体は、経済分析には重要です。要は使いようです。世の中では、期待が先行するあまり、ビッグデータ分析は万能だと誤解されがちですよね。そこに注意して使えば、いろいろな有用性が引き出せると思います。
副島 例えば、仮に個人の詳細な経済行動データが、消費バスケットのすべての財やサービスの購入額・量など、完全に近い形で集められるようになれば、その集計量はマクロの値に収斂するのかもしれないですね。
白塚 今は無理だとは思いますが、現在の技術進歩のペースを踏まえると、それは夢物語ではないかもしれませんね。ビッグデータ分野の発展に、大いに期待、ですね。もちろん、プライバシーや情報の管理、同意などクリアすべき問題は多くありますが。
学術ジャーナル文化の功罪
副島 マクロ経済学にブレイクスルーが生まれにくい要因について、学術的な理由を中心にとりあつかってきました。それ以外にも画期的な発展を妨げるような要因もあるのでしょうか?例えば、制度的な要因なども考えられそうです。

白塚 他の学術分野にも共通するかもしれませんが、経済学界における制度的な問題の1つとして「(学術)ジャーナル文化」があげられるでしょう。
学術的な業績の評価基準として、ジャーナル(専門の学術雑誌)掲載数が大きなウエイトを占める以上、ジャーナルに載せやすい研究が重視される傾向があることは否めません。例えば、既存の研究で用いられた分析手法を踏まえたうえで、手法を精緻化したり、ある側面を1歩進めるといった査読者にとって新奇性、研究価値の追加ポイントが確認し易いような研究です。一方で、類似の研究が存在しないようなテーマ、潜在的な価値は高いが結果を出すのに長期の時間を要するような研究は着手されにくいです。
先ほど話題にあがったHANKモデルについても、それまでのAiyagari(1994)[4] などによる不完備市場についての既存研究の成果と、Woodford (1999)[5] などで進められていた金融政策理論の既存研究の成果を統合したものとみることができます。意義ある統合ではあると思いますが、HANKに関する研究が流行しているのも「ジャーナルに掲載されやすいから」という理由が中心なのかもしれません。
副島 専門領域における評価は、その新奇性も含めて専門家しか判断を下せないので、ジャーナルという制度の役割は決定的に重要だと思うのですが、そのマイナス面の克服はなかなか難しいですね。革新的な研究を捻りだすことに多くの時間を費やす(そして殆どは失敗して結果を残せない挑戦となる)よりも、既存研究の流れに沿ったマイナーチェンジを量産するインセンティブが存在するのは当然のことだと思います。
ジャーナルを意識してしまうのはマクロ経済学に限らない話かもしれません。例えば、統計的因果推論の分野においても、ジャーナルに掲載してもらうことを重視するあまり、統計的に有意でない結果よりも、ウケのよい有意な結果を、意識・無意識的に選んでしまう「出版バイアス(publication bias)」が存在するという話を最近目にしました。
翁 自身の論文をジャーナルに載せてもらうことを目指すならば、ブレイクスルーは生まれにくいのは確かだと思います。とはいえ、ジャーナル志向は研究者の就職に直結しているので根が深く、脱却は簡単ではありません。査読付き学術誌での発表状況が少なくとも一流の大学への就職やテニュア(終身在職権)獲得の決め手になる一方、無名の研究者が全く新しいアイディアでブレイクスルーを目指す論文を書いても学術誌に掲載されるのは至難です。ノーベル賞をとったジョージ・アカロフの記念碑的作品「《レモン》の市場――品質不確実性と市場メカニズム」(原題:The Market for "Lemons": Quality Uncertainty and the Market Mechanism[6] )は、1960年代の半ばにアカロフが初稿を書いた、とされています。経済学に「情報の非対称性」という全く新たな領域を開き金融論にも甚大な影響を与えた論文ですが、頭の固い査読者にはその意義が理解できず、3度、いろいろな学術誌から却下され、4度目に持ち込んだ学術誌で辛くも掲載許可が下りました。出版されたのは1970年になってからのことでした。学術誌に採用されることが就職やテニュアに直結する、というシステムのもとではアカロフのように独創的なアイディアに固執するのは明らかに損ですから、ブレイクスルーが生まれにくいのは必然的だと思います。
白塚 ブレイクスルーの可能性として話をHANKに戻すと、通常のDSGEモデルの想定に縛られることなく、「ショックが発生する前の均衡状態に回帰することを想定しない」というアプローチはあり得るのではないでしょうか。方向が違うとスピードが非対称という研究はあっても可逆性は認めています。しかし、一度生じたショックによりある状態から乖離するとなかなか元に戻れないという現象は現実世界に少なからず存在していると思います。
例えば、異質性を取り込むことによって、様々な均衡状態へと変化していくといったメカニズムを取り込めると、HANKも興味深い研究領域になるように思います。複数均衡とHANKの融合ですね。
このように既存研究からもう一歩踏み出してチャレンジしていくことが、イノベーションを生むためのきっかけになるのだと思います。当然、そういったチャレンジは時間を要するため、ジャーナル掲載数が一時的に減少するという生みの苦しみと、結局は成功しないかもしれないリスクを受け入れる必要はあります。
未知なる研究領域に対するセンス
副島 未知なる研究領域を見定め、リスクをとって真に価値のある研究テーマを発掘していくためには、組織体制やセンス、カルチャーをどのように培うべきなのでしょうか。
日本銀行の調査・研究を長きにわたってリードされ、金研所長として組織運営をされてきたお二人のご意見をお聞かせください。

翁 話の取っ掛かりとして、トップダウン・ボトムアップ方式について考えてみましょう。シンクタンクという組織体での研究には、上司から部下にテーマを与えるトップダウン方式と、部下が研究テーマを提案するボトムアップ方式に大別できます。
トップダウン方式は、経験豊かなマネージャーが将来評価され得るテーマを指定するため、「売れる」リサーチが生まれる打率が上がります。ホームランとは言わなくても、多くのヒットを出すことができる可能性があります。
副島 う~ん、でも経済学では専門分野が年々増えていっているため、トップダウン方式のみに頼ってしまうと、マネージャーの負担が重くなりすぎませんか。とくに金研所長の立場だと、歴史研究や法律、会計、IT、ファイナンスと分野が多岐にわたるため、超人的な情報量とセンスを必要とします。
翁 そのとおりです。分野を限ったとしてもマネージャーがすべての研究領域を熟知しているわけではありません。研究領域が多岐にわたり、タコツボ化しつつある現在の学界において、マネージャーが、先行きも本当に価値のあるテーマを見つけ続けられるかは疑問符が付きますね。
また、経験が豊かということは、これまでの研究の流れにとらわれやすく、旧態依然とした見方に偏ってしまうリスクもあることを意味します。むしろ、先ほどディスカッションしたような、研究の袋小路に迷い込んでしまうかもしれません。
副島 それは困りますね。組織的にはどのように解決していくべきなのでしょうか?
翁 そこで、ボトムアップ方式の併用がどうしても必要になってきます。世の中には、マネージャーにとっては、その価値がまだ認識されていないけれど、後々に評価され得る研究テーマが数多く存在しています。そして、そうしたテーマを見つけてくる研究員は若手やシニアを問わずいます。
白塚 その好例は、北村(1999)[7] でしょうね。ボトムアップで執筆された論文で、通貨の最適な発行単位に関して研究しています。最適な通貨単位を「貨幣の受け渡し(支払いとそれに対するお釣り)が最小量で行えるもの」とする考え方に沿ったうえで、数学のBâchet 問題を出発点として議論を行っています。その論文では、日本に2,000円札が存在すると、支払いの効率性は高まるという結論を導出していました [8] 。

翁 当時、この論文は、数学の整数論の論文のようだと価値がなかなか理解されませんでした。自分も面白い、とは思いましたが、意義はよくわからなかった。もっとも、その後、2,000円札が発行されることになった時点で、その理論的意義が示されていることでがぜん注目を浴びました。文字通り、時代の先をいく革新的な研究だった、といえるでしょう。
副島 こういったボトムアップ方式をうまく機能させるためには、どのような組織づくりをしたらよいのでしょうか。また、マネージャーはその価値をどうやって判断すべきなのか・・・。マネージャーが整数論にまでセンスが及んでいるケースは少ないように思います。
翁 ボトムアップ方式を維持するためには、中間管理職が得意とするリサーチ分野を分散させることが望ましいと思います。所長がすべての領域をカバーすることは、現実的ではないので、「この人になら、この領域を任せられる」という人材を広く確保し、その分野の適任者に、ボトムアップされた新規領域が本当に魅力的かどうかを判断してもらうわけです。そして、その中間管理職のポートフォリオを考え確保するのが人事を担当する組織長の重要な役割なのだと思います。
ただ、日本銀行全体の人的資源の制約を考えると行内だけで適切な研究マネージメントの体制を構築するのは無理がある。その意味で、学界や実務家との人事交流が重要です。外部の研究者にさまざまなポジションで金研に在籍してもらうことでレバレッジを利かせたかたちで研究がすすめられますし、外部の多様な研究者の意見を常に聞くようにすることで、行内のスタッフもテーマの筋の良さをかぎ分ける嗅覚もそれなりに養われると思っています。
副島 一般企業でもダイバーシティ経営の重要性が叫ばれていますが、研究においてもダイバーシティが求められるということですね。現役の所長として研究や組織運営に悩んでいるところへ沢山のヒントを頂きました。
<第3回:「歴史研究と貨幣博物館」につづく >Notes
- リチャード・H・セイラー、遠藤真美訳『行動経済学の逆襲』、早川書房、2016年. [1]
- ルーカスは、行動方程式を仮定する考え方に対して、経済変数間の関係性は、その時々の経済政策を元に、家計や企業が合理的に行動した結果であり、政策レジームが変わった場合には、その関係性も変化し得ると批判した。この指摘はその後、学界や政策当局者の中で広く受け入れられるようになり、ミクロ的基礎づけ(家計や企業といった経済主体の期待形成や行動を明示的・理論的にとらえること)の重要性が意識されるようになった。 [2]
- ロバート・J・シラー、山形浩生訳『ナラティブ経済学:経済予測の全く新しい考え方』、東洋経済新報社、2021年. [3]
- Aiyagari, S. R., "Uninsured Idiosyncratic Risk and Aggregate Saving," The Quarterly Journal of Economics, 109(3), 1994, pp. 659-684. [4]
- Woodford, M., “Optimal Monetary Policy Inertia,” The Manchester School, 67(s1), 1999, pp. 1–35. [5]
- Akerlof, G. A., "The Market for "Lemons": Quality Uncertainty and the Market Mechanism," The Quarterly Journal of Economics, 84(3), 1970, pp. 488-500. [6]
- 北村行伸、「貨幣の最適な発行単位の選択について」、『金融研究』、第18巻第5号、1999年、237-247頁 ( https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk18-5-6.pdf ). [7]
- Bâchet 問題は、「1 以上の任意の整数で表される重量を天秤で計る時に必要な最小の分銅(様々な重さをとる)の組み合わせを求めよ」という問題である。この問題をベースに最適通貨単位を計算したTelser(1995)は、最適通貨単位は3の乗数倍(1、3、9、27、81、243、729、 2,187、6,561…)となると主張している。北村(1999)で主張されている通り、2,000円札発行以前の日本においては、729に対応する1,000の後は5,000円札であり、2,187に近い単位が存在していなかった。詳しくは上記の北村(1999)のほか次の論文も参照:Telser, L. G., “Optimal Denominations for Coins and Currency,” Economics Letters, 49(4), 1995, pp. 425-427. [8]

翁邦雄(おきな くにお)
大妻女子大学特任教授・京都大学公共政策大学院名誉フェロー。1974年日本銀行入行。シカゴ大学Ph.D.(経済学)。金融研究所長や京都大学公共政策大学院教授を経て現職。ご専門は国際経済学と金融論。近著に『金利と経済 ―高まるリスクと残された処方箋』(ダイヤモンド社、2017年)、『移民とAIは日本を変えるか』(慶應義塾大学出版会、2019年)、『人の心に働きかける経済政策』(岩波新書、2022年)などがある。

白塚重典(しらつか しげのり)
慶應義塾大学教授。1987年日本銀行入行。慶應義塾大学博士(経済学)。企画局審議役や金融研究所長を経て、2019年より現職。ご専門は金融論と日本経済論。物価指数にも造詣が深い。著書に『物価の経済分析』(東京大学出版会、1998年)、『金融政策 ―理論と実践』(慶應義塾大学出版会、2023年)、『日本の物価・資産価格 ―価格ダイナミクスの解明』(東京大学出版会、共著、2023年)がある。
- 本対談は、2022年12月下旬に開催しました。文中の肩書は対談時点のものです。
- 本ニュースレター中で示された意見・見解は登壇者のものであり、登壇者が現在所属している、または過去に所属していた組織の公式見解を示すものでは必ずしもありません。