金研設立40周年記念対談
イノベーションセンターとしての金研

第3回「日本銀行、インターネットに出会う」


京都大学公共政策大学院の岩下直行教授をお招きし、イノベーションセンターとしての金研を語っていただく対談企画、第3回をお届けします。
今回は、「日本銀行、インターネットに出会う」です。金研が日本銀行で初めてインターネットを導入し、金研ウェブサイトを立ち上げた経緯についてお話しいただきます。

インターネットのファーストユーザ

副島(金融研究所長) 第1回では、金研でインターネットに関する技術調査を担当されたというお話しを伺いました。金研にインターネットが導入されたのは、国内で商用利用が始まるより前だったのですよね。

岩下(敬称略) そうです。民間研究機関の間で既に構築されていた科学研究一般用のネットワークに参加する方針で1993年頃に検討を開始しました。翌1994年、関東甲信越地区の大学などにインターネット接続を提供していた東京地域アカデミックネットワーク(TRAIN)に参加することになりました。

金研内にサーバを設置して、東京大学の大型計算機センター内にあるネットワーク・オペレーション・センターに専用回線で接続しました。当時の通信速度は64キロビット/秒です。今の平均的な光回線の通信速度は約1ギガビット/秒ですから、15000分の1程度にすぎませんが、当時としては立派な高速回線でした。

副島 1993年から1996年に金研の研究1課にいたので、インターネットがやってきたときのことを覚えています。試験中に触らせてもらったブラウザは、Internet ExplorerでもNetscapeですらなくMosaicでした。そのころ登場したNetscapeにすぐに置き換えられ、それからInternet Explorerとのシェア争いが始まり、JavaScriptやCSSが登場。まさにネット時代の黎明期でした。テスト用UNIX機のMosaicブラウザに英語で書かれたウェブサイトが現れてきたとき、すごい、ここから海外が覗けるのとかと驚いたことを思い出しました。

インターネットの導入によって研究活動が急激に活発化しました

岩下 当初はインターネットを「使う」ことが目的でしたので、サーバの管理は金研内でパソコン等の導入を支援する部署が担当していました。その後、インターネットそのものを研究対象にしようということになり、1995年以降、サーバの管理を情報技術研究チームで行うことになりました。

副島 インターネットとのファーストコンタクトはどんなものでしたか?

岩下 電算情報局(現・システム情報局)でシステム周りの仕事をした経験はあったので、サーバを管理するという仕事に抵抗はありませんでした。ただ、ふたを開けてみると、それまでの経験がほとんど役にたたなかったのです。

インターネットの世界は、それまでとはとにかくスピード感が違いました。メインフレームは10年は使用するのが当たり前でしたが、インターネット・サーバは2~3年で更新が必要と言われて驚きました。

セキュリティソフトも刻々とアップデートされるので、それにも対応していかなければなりません。新しいソフトウェアは最新の機種にしか対応していないことが多いので、一定のセキュリティレベルを維持し続けるためにも、ハードウェアを常に更新し続ける必要がありました。

システム運営に関していえば、日銀の先輩方からは「ファーストユーザになるな」と言い聞かされてきました。ある程度実績を積んで安定稼動することが確認できている技術・製品を使うように、という教えです。しかし、インターネットの世界では、ファーストユーザにならなければ安全性は保てません。このように、インターネットはそれまでの常識とは正反対の性質をもっていました。そうしたものに、待ったなしの対応が求められたわけです。

副島 それまでのシステム文化だと、インターネットに対応するのが難しかったということですね。レガシーシステムの克服や企業風土の変革が必要という点では、昨今のDX(デジタル・トランスフォーメーション)と同じですね。

<次ページ:金研ウェブサイトの立ち上げ>

金研ウェブサイトの立ち上げ

副島 金研は独自のウェブサイトをもっているので、今回の設立40周年記念企画やサイト全体のリニューアルのように、試行錯誤を一定の自由度をもってテストすることが可能です。このウェブサイト立ち上げも担当されたのですか?

岩下 そうです。情報技術研究チームでインターネット接続用サーバの管理を担当するようになってすぐ、1995年に、金研のウェブサイト(www.imes.boj.or.jp)を立ち上げました。これは、日銀本体のウェブサイト(www.boj.or.jp)よりも早かったんです。

それまでは、電子マネーに関する研究(第2回対談)のように、研究の成果物を内部文書に留めるケースが割と多くありました。しかし、ウェブサイトから情報発信を続けていく過程で、研究成果を積極的にオープンにする方向に舵が切られていきました。金研ウェブサイトでは、それまで紙で発行していた論文をPDFフォーマットで掲載することにしました。情報技術研究に関する個人論文が初めてウェブサイトに掲載されたのも1997年のことです。

研究成果をオープン化したことで、各方面からさまざまな反応やコメントが寄せられるようになりました。寄せられたコメントをもとに、研究をさらに良いものにしていくという好循環がうまれたのも、金研ウェブサイトの功績だと思います。

執務室にサーバを置き、その隣でホームページの管理業務を行っていました<引用:にちぎん1999年4月号>

副島 ウェブサイトの立ち上げ以前に書かれた論文についても、紙をスキャンして順次掲載されていきました。私が書いた論文も掲載されて、嬉しかったのを覚えています。ウェブサイトの管理でご苦労されたことはありましたか?

岩下 ウェブサイトは組織の顔ですので、止めるわけにはいきません。立ち上げ当初は毎日サーバの前にずっと座り込んで対応していました。

緊張感は非常に高かったのですが、学ぶことも非常に多くありました。ただ、独自のウェブサイトをもつとその分コストも高くつくので、その後、日銀のウェブサイト(サーバ)に間借りする形で金研のウェブサイトを運営するかたちとなりました。

現在の金研ホームページ

副島 サイトやコンテンツの自主製作は今も続いています。ところで、金研はインターネットに限らず、ネットワーク化された一般事務用のパソコン導入(Windows3.1)や高負荷計算用のクライアント・サーバ・システムの導入など、日本銀行の技術的実験場でありました。自分もバック・プロパゲーション/ニューラル・ネットワークをSolarisワークステーションで走らせていましたし、そういえばNeXTのかっこいい筐体も鎮座していました。

そうしたチャレンジ精神は、情報技術研究にどのようにいかされたのでしょうか。

岩下 自らインターネットに接続するとともに、インターネット技術を支える学者・技術者のコミュニティに積極的に参加していくことによって、地に足の着いた研究が可能となりました。こうした活動が、現在の情報技術研究の源流となっています。

個人的には、日銀という伝統ある組織にいながら、インターネットという新しい技術に接して新時代の感覚を養うことができたのは本当に貴重な経験でした。日銀でFinTechセンター長として新組織を立ち上げ、その後もFinTechやその要素技術の研究に携わっていますが、こうした感覚が役にたっているように思います。

副島 そのFinTechセンター長の三代目を引き継がせて頂きました。直接ごいっしょさせて頂く機会は金研でも他の部署でもなく、むしろ会社の外でお会いすることのほうが多かったようにおもいます。これも不思議なご縁ですね。

<第4回:「暗号の国際基準を動かした金研の底ヂカラ」につづく >


岩下直行
京都大学公共政策大学院教授。1984年日本銀行入行。情報技術研究センター長、下関支店長、金融高度化センター長、FinTechセンター長を経て、2017年より現職。金融庁参与、金融審議会委員、規制改革推進会議委員、国立情報学研究所・研究開発機構客員教授を兼務。


副島豊
日本銀行金融研究所長。修士(経済学:ワシントン大学)。1990年日本銀行入行。金融市場局、決済機構局、考査局(金融機構局)、調査統計局、国際局、海外事務所長、支店長、FinTechセンター長を経て、2021年より現職。


  • 本対談は、2022年9月上旬に開催しました。文中の肩書は対談時点のものです。
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