金研設立40周年記念対談:マネーシステムの歴史を語る(第2回<全3回>)

立正大学の北村行伸教授(一橋大学名誉教授)と早稲田大学の鎮目雅人教授をお招きし、マネーシステムの歴史を語りあう記念対談、第2回をお届けします。前回は、「お金はいつどのように生まれ、どのような機能をはたしたか」でした。

今回は、「江戸から明治の日本近代化の時期に、お金や銀行という社会インフラはどのように整えられていったか」というお話です。

江戸、明治そして現代へ

副島(金融研究所長) 江戸時代は金・銀・銭貨の三つの貨幣が使われていました。三貨制といわれています。三貨それぞれで単位が異なっていて、金貨は両で数え、銀貨は主に匁という重さの尺度で価値をあらわしていました。数え方も四進法が一部に使われたり、現代とはだいぶ様子が違います。

幕府が三貨の交換レートを公定相場として決めてはいましたが、実際は両替商が適用する変動相場が使われていました。使われ方に地域差もあって、例えば江戸は金貨、大坂は銀貨が中心です。

それに加えて、各地でいろいろな藩札が発行され、ものすごく複雑な制度になっています。よくこれで経済が回ったなと驚きます。

明治維新後には海外の制度を取り入れながら新しい通貨制度が作られていったので、複雑怪奇な江戸期との間には断絶があると思い込んでいました。しかし、渋沢栄一の大河ドラマをみて、そうではなかったのだと気が付きました。

鎮目(敬称略) 日本だけでなく、欧州でも米国でも、1つの国や地域で1つのお金が流通する仕組みができたのは19世紀からです。その前は、世界のさまざまな地域で2つ以上のお金が同時に流通していました。

19世紀の英国やフランスでは、お金を統一し、その単位で表された紙幣がいくつかの銀行により発行されました。また、これらの発券銀行を集中させ、お金の信用を保証する仕組みが出来上がりました。この制度が中央銀行に発展し、世界中に広まり現代まで続いています。

「2011年企画展:貨幣・天下統一」 (貨幣博物館HPへ)

幕末維新期には貨幣流通や金融活動が混乱しましたが、試行錯誤を繰り返しながら、約30年という比較的短い期間で、お金の統一とお金を発行する銀行の統一を実現しました。その背景には、三貨制度、藩札・私札など紙幣の流通、全国の物流を支えた商人たちの金融活動といった、江戸期に蓄積された経験やノウハウが各地域にあったと考えられます。

江戸時代を通じて幕府は三貨制を続けました。また、江戸時代の藩札・私札の発行は、幕府による禁止令をはさみながら200年ほど続きました。もちろん、それぞれの藩札をみると値崩れしたものもたくさんありましたが、仕組みとしてこれほど長い間続いたのは、世界的にみても珍しいことです。

明治期の日本は、今も続く中央銀行制度に一直線に向かったのではなく、政府紙幣や免許を得た民間銀行が各地でお金を発行する米国流の国立銀行制度など、さまざまな制度を試しました。

副島 新政府は、まずは太政官札という政府紙幣を発行したのですよね。

「2021年テーマ展:渋沢栄一にまつわるお金の話」 (貨幣博物館HPへ)

鎮目 そうです。太政官札は全国で流通した最初の紙幣です。ここにも江戸期からの流れがあります。

明治政府で紙幣の発行を担当した由利公正は、江戸時代には越前福井藩の武士でした。由利は、藩札を発行して領内の生糸商人などに貸し付けることで生産を増やし、商品を領外で販売して金銀を得るという、商品とお金が循環するシステムを作り上げました。

商品とお金を循環させるシステムを実感として理解していたのは、由利公正だけではありません。先の大河ドラマで取り上げられた渋沢栄一も、一橋家の武士だった頃、領地の播磨で紙幣を発行して木綿商人に貸し付け、木綿産業を振興しました。

副島 紙幣を発行して稼ぐことができる産業に貸したのですね。ビジネスでお金を貸すという行為は、現代では預金口座への振込で行われます。預金という負債の発行が与信とセットになっているわけです。当時は、紙幣という負債を発行することで与信が行われたのですね。

鎮目 その通りです。江戸時代の日本が、商品とお金が循環する社会経済システムを体験していたからこそ、明治時代にお金の統一や銀行制度をスムーズに取り入れることができたのだと思います。

与信という視点でみると、与信する者が負債を発行することで資金を供給するという構図になっており、江戸期も明治期も現代ですら同じですよね。信用創造により産業振興を図ったわけです。

【次ページ、銀行制度確立までの紆余曲折】

銀行制度確立までの紆余曲折

副島 政府紙幣の発行体制を整えたのに、なぜ、国立銀行制度を試しはじめたのでしょうか。

早稲田大学・鎮目雅人教授

鎮目 主な理由は二つありました。一つは、新政府は、その政府紙幣をたくさん発行しすぎて、これを回収する必要が生じたためです。もう一つは、産業育成のために全国各地で銀行を設立させたかったからです。 国立銀行制度を始めるとき、政府内にはいろいろな意見がありました。米国の制度を現地で調査した大蔵官僚の伊藤博文は、各地の複数の民間銀行が金(ゴールド)の裏付けのいらない紙幣(不換紙幣)を発行する米国流の制度を取り入れようとしました。 他方、米国だけでなく英国にも留学した同じく大蔵官僚の吉田清成は、金と交換できる紙幣(兌換紙幣)を単一の銀行が発行する英国流の制度がよいと主張しました。渋沢栄一等の仲立ちで双方が折り合い、民間銀行が兌換紙幣を発行する国立銀行の仕組みがスタートしました。

しかし、紙幣の発行額に応じた十分な金を保有せよ、という兌換紙幣制を保つための規制が厳しかったため、実際に設立された国立銀行は全国で4行のみでした。

副島 全国で4行は少ないですね。それでは産業振興の目的は果たせないですよね。

鎮目 残念ながらそうでした。数年後、政府は国立銀行制度を改正しました。その頃、政府は各藩から引き継ぐかたちで支給していた士族への禄の支払いを止め、代わりに金禄公債という国債を配りました。同時に、失業した士族の暮らしが少しでも賄えるようにとの配慮から、この国債を元手に国立銀行を設立できるよう、国債で資本を払い込むことを認めたのです。また、国立銀行が金の裏付けのいらない不換紙幣を発行することを認めました。こうした緩和策もあって、全国で153もの国立銀行が設立されました。

実は、国債による資本払い込みも、米国をヒントにしています。南北戦争期の米国では、北部政府が発行する国債を裏付けとして民間の銀行がお金を発行していたのです。

副島 なるほど、狙いは成功したわけですね。でも、できたばかりで信用もまだないような銀行が不換紙幣を発行して大丈夫かという気もしますが。

鎮目 そうなのです。国立銀行がたくさんできると、中には経営がうまくいかない銀行が出てきました。すると、そもそもそんな銀行がお金を発行してよいのか、という話になります。

もうひとつ別の問題がありました。各地に設立された銀行間の送金(為替取引)をどうやって実現するかという課題です。国立銀行がそれぞれの地域で自前のお金を発行するのはよいにしても、地域を越えた物流や金融取引を仲立ちするための仕組みが必要です。

この取引を成立させるためには銀行どうしが預金を持ち合う必要があります。いわゆるコルレスバンキングで、海外送金には今でもこの手法が使われています。

しかし、考えてみると、153もの国立銀行がお互いに預金を持ち合うというのは非効率です。実際、銀行間の為替取引のネットワークはある程度かたち作られたのですが、地域間の資金偏在がなかなか解消せず、大きな金利格差が生じたとされています。

「2022年にちぎん140周年企画展:水辺の風景と日本銀行」 (貨幣博物館HPへ)

そこで、いったんお蔵入りにしたけど、やはり英国流の中央銀行を作ろう、という話になったわけです。それぞれの銀行が中央銀行に預金口座を持つと、その口座振替で銀行同士の送金が可能となるのです。

紙幣の発行を中央銀行に集中させる。中央銀行預金というお金を銀行に対して発行し、銀行間のお金の流れをよくする。これらが中央銀行を設立する重要な動機となったのです。

副島 なんだか手探り感あふれる国造りの物語ですね。渋沢栄一の大河ドラマでは出てこなかった話です。第一国立銀行はクローズアップされていましたが。

鎮目 近代国家建設期の日本は、さまざまな制度を試しました。当時の米国は新興国家として勢いがあり、英国流の中央銀行制度よりも米国流のナショナルバンク制度のほうが優れているかもしれないという見方もあったのです。先にお話しした伊藤博文と吉田清成の論争ですね。

政府紙幣に続いて、国立銀行制度を試してみたけれど、うまくいかない面が出てきたので、中央銀行制度を導入し、今に至っているわけです。

社会の仕組みが大きく変わるときは、予め正解が分からないですよね。明治時代の日本は、いくつかあった外国のモデルなどさまざまな制度を試し、方針転換を繰り返しながらよい制度を追求していった、その際に江戸時代の経験も活かした、ということだと思います。

副島 現在のデジタル通貨を巡る議論と似ています。新しい電子マネーを発行する企業が登場する一方で、暗号資産の技術を使ったステーブルコインが登場しています。中央銀行デジタル通貨(CBDC)をどう設計し、社会インフラに取り込んでいってもらうのかという論点もあります。まさに手探りの議論が行われており、明治の国造り期との類似性を感じます。

【次ページ、試行錯誤はどの国も同じ】

試行錯誤はどの国も同じ

副島 まとめると、明治新政府は、英国流の中央銀行を作る前に米国流のやり方で全国に銀行を作ったわけですね。

鎮目 日本が一時はモデルにした米国も、一筋縄ではいきませんでした。ナショナルバンクの前には、州が認可するステートバンクがありました。13の州が集まってできた連邦国家としての合衆国建国の背景を考えれば合点がいきます。

その後、南北戦争のときに国が認可するナショナルバンクができ、そこで発行されるお金は国債を担保とする仕組みができました。でも、州の独立性を重んじる米国では、中央銀行であるFRB(連邦準備制度)ができるのは20世紀に入ってからなのです。

立正大学・北村行伸教授

北村(敬称略) この件に限らず米国の歴史では、連邦主義者(フェデラリスト)と州の独立性を重視する反連邦主義者という対立軸が存在します。 日本の明治政府は南北戦争期の米国をヒントにしましたが、米国の歴史をさらに遡ると、今の中央銀行であるFRBの前身ともいえる銀行が存在していました。 独立戦争を戦った13州は、それぞれが借金して軍備を整え、兵隊を募っていました。独立を勝ち取ったのはよかったのですが、戦費で財政難に陥った州がたくさんでました。 財政が不安定な状況下で、フェデラリストの代表格であるハミルトン(初代財務長官、合衆国憲法の制定に尽力)は、13州の債務を国債に一本化しました。

ただし、税収や支出にかかわる国庫業務を民間の州法銀行に頼らざるをえなかったため、連邦の力を強めたいハミルトンは政府資金を預託管理する第一合衆国銀行を官民出資で設立しました。「政府の銀行」が誕生したわけです。

しかし、各州はもともと強く張り合っていたので、バージニア州などが反発し、第一合衆国銀行は銀行免許を更新することができず期限満了で潰されたわけです。のちに設立された第二合衆国銀行も同じく期限満了で消滅しました。時代を下ること1913年、三回目に設立した連邦準備制度が今まで続く中央銀行となっているのです。

副島豊・金融研究所長

副島 第一・第二合衆国銀行とも発券銀行の機能は主な目的ではなかったのですね。そのような銀行が存在したって意外です。それにしても、設立の際にあえて期限を設けたのはなぜでしょう。どちらも今の感覚からすると不思議な気がします。

北村 イングランド銀行も、うまくいかなかったら他のものに変わるという条件のもとで始まりました。イングランド銀行の設立契機は、イングランド王国の戦費調達であったというのは有名な話です。イングランド銀行をモデルにしたアムステルダム銀行も期限付きだったという点では同じです。

副島 アムステルダム銀行は市が設立したのですよね。オランダ東インド会社ができたころ、アムステルダム市は交易拠点として栄え、決済需要が高まったことによって生まれた銀行と聞きました。物理的なお金の発券は行わず、預金口座と決済サービスの提供に特化したユニークな銀行だったそうです。

北村 そうです。どのような銀行制度が望ましいか、モデルがなかなか定まらない時代では、期間を区切って試行錯誤することが必要だったのだと思います。

鎮目 日本銀行もそれに先立つ国立銀行も、期限付きです。中央銀行が期限付きで設立されたというのはむしろ世界標準だったのです。

副島 試行錯誤はどの国も同じだったのですね。ところでこの件に限らず、国が異なるのにお金や銀行の仕組みが似てくることはどう理解すればよいのでしょう。メートル法のように世界各国が共通の尺度を使ったほうが便利、という話なら分かるのですが。

北村 メートル法は誰も反論できないくらいユニバーサルな基準です。1メートルは北極点から赤道までの距離の1千万分の1、1グラムは1立方センチメートルの水の重さで、地球人全体に共通です。

日本が1955年に出した1円玉は、半径1センチメートル、重さ1グラムでした。日本のお金はユニバーサルなのですという意気込みを感じます。

「1円硬貨と1ユーロ硬貨」

こうした物理基準とは違った社会制度においても、世界的に共通した特徴が表れるのは興味深い話です。合理性がシステムを収れんさせたのか、他国の制度を学んだことが要因なのか、考えさせられる現象ですね。

ちょっと脱線しますが、各国のお金にユニバーサルな尺度を用いるという発想は、理想論ですが面白いと思います。

副島 国境が存在し、各国でお金の尺度と人々の生活が強く結びついているなかで、各国のお金をユニバーサルな尺度に揃えることは、実際には難しいのではないでしょうか。

ユーロ統合は本当によくできたものだなあと今振り返っても驚きます。通貨発行権を含む国家主権の一部放棄ですから。二度の大戦の悲惨さをけっして繰り返さないという強い決意が通貨や行政、規制などさまざまな社会システムに織り込まれていることを、フランクフルト勤務時代に感じました。

近代国家が銀行制度や通貨制度を模索する過程をこうして振り返ってみると、お金と銀行と国家が密接に結びついている様子がとてもおもしろいです。

第2回おわり

第3回はこちら


北村行伸(きたむら ゆきのぶ)

立正大学教授・一橋大学名誉教授。1988年オックスフォード大学大学院博士課程修了。D.Phil(経済学)。OECDパリ事務官、日本銀行金融研究所研究員などを経て、2002年一橋大学経済研究所教授、2015~17年に同所長。2020年より現職。ご専門は金融論など。主な著書に Quest for Good Money: Past, Present and Future (Springer, 2022)、『パネルデータ分析』(岩波書店、2005)。


鎮目雅人(しずめ まさと)

早稲田大学政治経済学術院教授。1985年日本銀行入行、2006~08年、神戸大学経済経営研究所教授、日本銀行金融研究所勤務などを経て、2014年より現職。博士(経済学:神戸大学)。ご専門は金融史、貨幣史など。主な著書にThe Japanese Economy During the Great Depression: The Emergence of Macroeconomic Policy in A Small and Open Economy, 1931-1936(Springer, 2021)、『信用貨幣の生成と展開:近世~近代の歴史実証』(編著、慶應義塾大学出版会、2020)。


副島豊(そえじま ゆたか)

日本銀行金融研究所長。修士(経済学:ワシントン大学)。1990年日本銀行入行。金融市場局、決済機構局、考査局(金融機構局)、調査統計局、国際局、海外事務所長、支店長、フィンテックセンター長を経て、2021年より現職。


  • 本対談は、2022年10月下旬に開催しました。文中の肩書は対談時点のものです。
  • 本ニュースレター中で示された意見・見解は登壇者のものであり、登壇者が現在所属している、または過去に所属していた組織の公式見解を示すものでは必ずしもありません。
  • 本ニュースレター3ページ目の「1メートルは北極点から赤道までの距離の1万分の1」は「1千万分の1」の誤りでした。訂正しておわびします。