金研設立40周年記念対談
イノベーションセンターとしての金研

第1回「金研の情報技術研究ことはじめ」


京都大学公共政策大学院の岩下直行教授をお招きし、情報技術研究について語り合う記念対談、第1回をお届けします。
全5回中の1回目は、「金研の情報技術研究ことはじめ」です。

それは一通の封書で始まった

副島(金融研究所長) 岩下教授は、金研における情報技術研究の黎明期を支えられた立役者です。長く金研でご活躍されましたが、1982年に設立された金研とのファーストコンタクトはどういったものだったのでしょうか?

岩下(敬称略) 情報技術が急速に進展していた1990年代前半、私は電算情報局(現・システム情報局)で既存システムの更新などを行う業務に携わっていました。行内では社内ネットワークの新規構築が始まった頃でしたね。

そんななか、1993年のある日、海外当局から私の所属するチームに一通の封書が届きました。「日銀はIPアドレスの枯渇問題への対応についてどのように考えているのか」という照会でした。

海外当局から届いた一通の手紙がきっかけだった

いわずもがなですがIPアドレスとはインターネット上で通信先を識別するための番号です。32ビットで表される仕様となっており、たった43億(2の32乗)パターンしかありません。インターネットに接続される機器の数が増えれば、いずれIPアドレスが枯渇してしまいます。海外当局は、この時すでに将来のインターネットの発展を見越していただけでなく、IPアドレスの確保が喫緊の課題になるという問題意識をもっていました。

副島 インターネット黎明期にもかかわらず、海外当局がすでにそうした問題意識をもっていたとは驚きです。その頃の日銀の状況はどうだったのですか?

岩下 日本では商用インターネット・サービスが始まったばかりでした。インターネットを利用して何ができるかもよくわからない時代で、日銀の業務にインターネットを使う余地があるかもよくわかっていませんでした。海外当局に回答を送るには、まず、インターネットについての勉強から始める必要がありました。

(注)日銀ネットの稼動は1988年で、そこからまだ間もない時代です。eメールはパソコン通信プロバイダのクローズドな環境のなかでのみ使われていました。

対談時の岩下教授(京都大学公共政策大学院)

ちょうどそのころ金研がインターネットに関する調査を始めているという話があり、海外当局からの照会は金研に引き継がれることになりました。これで私の手からいったん離れたと思ったのですが、ほぼ同じタイミングで金研への異動が決まり、また本件を担当することになりましたw 1994年のことです。後に、私が「インターネットに詳しい人物」ということで金研に引き抜かれたという裏話を聞きました。

<次ページ:時代に先駆けた日銀ネット>

時代に先駆けた日銀ネット

副島 なるほどそんな経緯があったんですね。金研では、その後、暗号技術を中心とした調査研究が活発化しますが、暗号技術との出会いはどういったものだったのでしょうか?

岩下 日銀ネットでは共通鍵暗号DES[1] がすでに実装されていました。日本におけるDESの実装例として、かなり先駆的なシステムだったと思います。具体的には、国債の移転登録の処理プロセスで、DESをベースとしたMAC[2] という技術を導入したのです。紙の国債では、売買による移転時に譲渡人と譲受人の両方の押印が必要だったところ、それを電子的に実現する技術としてMACが採用されたのです[3]

当時、米国や欧州では、クレジットカード取引での暗証番号入力装置などに暗号技術が活用されていましたが、日本で暗号技術が民生品に使われた事例は私が知る限りありませんでした。米国から輸入するハードルが非常に高かったというのが理由の1つだと思います。

米国では、暗号技術を国家安全保障上の重要機密事項として、極めて厳格な輸出管理が行われていました。そのため、我々が暗号技術を輸入して使用するには、米国当局による厳しい審査をクリアする必要がありました。

私が電算情報局に着任したのは日銀ネット稼動後なのでDESの実装には直接携わっていないのですが、当時の苦労話を先輩方からよく聞かされました。電算情報局では日銀ネット周辺の業務を担当することになり、そこで暗号技術を勉強しました。

共通鍵暗号を利用した典型的なMACの生成方法<引用:宇根・太田、「共通鍵暗号を取り巻く現状と課題」>

副島 暗号技術で日銀が先駆け的な存在だったとは知りませんでした。日銀ネットでの実装をきっかけに岩下教授の暗号技術研究がスタートしたのですね。たしか、DESはその後、暗号学者によって破られましたが、それはいつ頃だったのでしょうか?

岩下 1990年以降、各国の暗号学者によって暗号技術の安全性低下を示す研究成果が次々と発表され始めました。金研でもDESの安全性に関する調査研究を始めることになり、私はマネージャーの立場で暗号技術に携わることになったという経緯です。

<次ページ:デジタル化・ネット化社会の先読み>

デジタル化・ネット化社会の先読み

副島 当時の研究2課(現・制度基盤研究課)は、金融制度に関する調査研究を行う部署でした。私はそのころ研究1課にいて、同期が隣の研究2課にいましたので覚えています。研究2課がどうして情報技術に関する研究を始めることになったのでしょうか?

岩下 研究2課は1993年まで中央銀行制度に関する調査研究を中心に行う部署でした。その後、法律、会計、情報技術の3つの分野を中心に研究を進めるべく、3つのチームが編成されました。課内では、この3チームを、「ハイテク(high technology、情報技術のチーム)」、「チューテク(従来からの中央銀行論のチーム)」、「ローテク(law technology、法律・会計のチーム)」という愛称で呼んでいました。最後はLowではないですよw

しかし、当時、日銀内には情報技術を専門に勉強してきた職員などいませんでした。そこで、数学やパソコン(PCのことです)の知識のある職員を狩り集めてきて担当に充てるということをしていました。私も学生時代は経済学を専攻していましたので、情報技術研究が仕事になるとは思いもよりませんでした。

当時の研究2課は、旧館ドーム(丸屋根)の下(通称:八角室)にあり、歴史の重みを感じさせる荘厳な空間で研究業務を行っていました<引用:にちぎん1993年10月号>

当時、情報技術は金融業界の成長の源泉であると言われ、その重要性は広く認識されていました。ただ、当時の「情報化」というのは非常に狭い意味で捉えられていたように思います。とにかくコンピュータをたくさん並べて、そこから自動的に大量の紙が打ち出されて、それを見て仕事をする、というイメージでした。今の時代にして思えばちょっとあれですね。

副島 たしかに、知らないもの、存在しないものを考えるのは難しいですね。iPhone以前にいまのスマホ時代の生活を想像できないように。私も所員に対して「創造力より妄想力が大事、全力で妄想しよう」といってます。タブーを恐れず、常識の枠にとらわれずにいろいろ考えてみるのは大切なことですが、とても難しいことだとも思います。情報技術研究においては、まさに妄想力が必要だった時代ですね。

将来のデジタル社会について想像を膨らませていました<引用:にちぎん1993年10月号>

岩下 そうですよね、たしかに金融分野における情報技術活用の具体像というものはまだ見えていませんでした。インターネット・サービスが開始され、パソコンが普及し始めた時代でしたので、こうした新しいツールを使うことで金融サービスがどのように変化していくのか、みんなでいろいろと想像を膨らませて議論したものです。

その1つが電子マネーです。将来のデジタル社会を想像したとき、日銀券がこのまま紙媒体として残るとは考えにくいだろうということで、現金の電子化に関する検討を開始することになったのです。

<第2回:「30年前の電子マネー研究秘話」につづく >

Notes

  • DES(Data Encryption Standard)とは、1977年に米国政府標準暗号に認定された共通鍵暗号方式。その後、トリプルDES、AESと発展し、交通系電子マネーでもこれらが採用されている。 [1]
  • MAC(Message Authentication Code)とは、共通鍵暗号方式を用いてメッセージが改ざんされていないことを確認する技術。 [2]
  • 岩下直行、「決済システムにおける情報セキュリティ(第3回決済システムフォーラム資料)」、2001年 [3]

岩下直行
京都大学公共政策大学院教授。1984年日本銀行入行。情報技術研究センター長、下関支店長、金融高度化センター長、FinTechセンター長を経て、2017年より現職。金融庁参与、金融審議会委員、規制改革推進会議委員、国立情報学研究所・研究開発機構客員教授を兼務。


副島豊
日本銀行金融研究所長。修士(経済学:ワシントン大学)。1990年日本銀行入行。金融市場局、決済機構局、考査局(金融機構局)、調査統計局、国際局、海外事務所長、支店長、FinTechセンター長を経て、2021年より現職。


  • 本対談は、2022年9月上旬に開催しました。文中の肩書は対談時点のものです。
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