本稿では、黒田・山本[2003a, b]以降の一連の研究を総括し、1990年代のわが国における名目賃金の下方硬直性に関する分析結果を整理するとともに、名目賃金の下方硬直性に関する政策含意について、若干の考察を行う。
わが国の名目賃金の下方硬直性に関しては、次のような整理が可能である。まず、わが国労働市場では1992~97年頃に名目賃金に下方硬直性が観察されたものの、1998年以降は、フルタイム労働者の年間給与について下方硬直性が観察されなくなった。次に、1992~97年頃に観察された名目賃金の下方硬直性は、わが国の失業率をある程度押し上げたことが示唆される。この間、労働市場ではパートタイム労働をはじめとした非正規就業の活用が進んだため、一部の失業については解消した可能性がある。ただし、こうしたパートタイム労働の増加は、採用抑制によりフルタイム労働者になれなかった若年層を中心に生じていたと考えられることから、1992~97年頃の名目賃金の下方硬直性は、世代間格差の拡大や人的資本蓄積の遅れといった別の弊害をもたらした可能性がある点にも留意すべきである。
名目賃金の下方硬直性に関する今後の政策含意を考えるうえでは、名目賃金の下方硬直性が低インフレ・デフレ下で賃金決定上の制約となりうるか、すなわち、名目賃金の下方硬直性の背後にある「賃下げは滅多に起こらないという社会規範」が成立しているか否かを見極めることが重要である。そうした社会規範が成立している可能性がある場合には、名目賃金の下方硬直性を意識した政策運営を心掛ける必要性が生じうる。
キーワード:名目賃金の下方硬直性、インフレ率、失業率、金融政策
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