1945年8月の敗戦から、49年初めのドッジ・ラインに至るまで、わが国は数年間にわたって激しいインフレーションに直面した。こうした状況のなかで、日本銀行に課せられた中軸的課題は、「生産復興とインフレ抑制の同時達成」であった。当時、日本銀行が、この問題に対してどのような認識を持ち、どのような政策手法でそれを実現しようとしていたのかを実証的に検討すること、これが本稿の課題である。1958年にまとめられた日銀調査局文書は、「もし、これ迄のインフレ過程において、より安定的な政策がとられ、より早期に経済の安定が図られていたならば、経済復興のテンポがあるいは多少遅れるようなことがあったかもしれないにしても、より堅実な形で経済の再建が行われ、爾後における経済発展過程をより健全なものにしたであろうと考えられる」と、占領下戦後改革期の政策に対して、かなり批判的な総括を加えた。本稿では、一連の価格体系や物価統制機構に対してだけでなく、経済復興・生産増強などの目的から遂行された当該期の政策との関連に留意しつつ、この評価の再検討を試みる。当該期の日本銀行は、生産の低位による供給制約の問題をかなりの程度強調しながら、この時期のインフレの根本要因については、財政収支の不健全に求めていたこと、46年秋以降、金融緊急措置というハードな通貨措置の効果が消滅して以降、日銀の金融政策の中核に置かれたのは、融資規制と融資斡旋の組合せによる資金の質的調整であったこと、これは、生産の回復によるインフレの進行鈍化を実現するとともに、価格調整政策の限界の露呈を防ごう、あるいはできるだけ遅らせようとする日銀のぎりぎりの選択であったこと、などを明らかにする。
キーワード:ハイパー・インフレーション、価格調整、融資規制、為替レート、ディス・インフレ政策、GHQ、経済安定本部
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