お金の歴史に関するFAQ

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江戸時代の一両の現在価値はどのくらいですか?

江戸時代における貨幣の価値がいくらに当たるかという問題は、大変難しい問題です。世の中の仕組みや人々の暮らしが現在とは全く異なり、現在と同じ名称の商品やサービスが江戸時代に存在していたとしても、その内容に違いがみられるからです。
ただし、1つの目安として、いくつかの事例をもとに当時のモノの値段を現在と比べてみると、18世紀においては、米価で換算すると約6万円、大工の賃金で換算すると約35万円となります。なお、江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほどになります。

日本で最初につくられた貨幣は何ですか?

708(和銅元)年発行の「和同開珎」とされていましたが、それより前に「富本銭」がつくられていたことがわかりました (1998年の飛鳥池遺跡の発掘成果による)。さらにそれ以前にも、「無文銀銭」が用いられていたことも明らかとなっています。

昔のお金の穴(孔)が四角いのはなぜですか?

銭貨に四角い穴があいていることの起源は、紀元前3世紀に秦(中国)の始皇帝の時代に作られた「半両銭」まで遡ります。穴が四角い理由の1つは、当時の中国では、天は円形(丸)、地は方形(四角)と考えられており、中央に正方形の穴をあけた円形(円形方孔)は、天と地を組み合わせた縁起の良い形とされていたためと言われています。

また、もう1つの理由は、銭をつくるときの最後の工程で、穴に四角い棒を通して固定し、銭の側面を磨いたためと考えられます。
円形方孔の銭貨は、その後、東アジアに広まり、日本でも1,000年以上の間使用されました。

渡来銭やびた銭と呼ばれる貨幣とはどのようなものですか?

渡来銭とは、東アジア(主に中国)から日本へ渡ってきた銭貨のことです。日本では10世紀末から16世紀まで国家による銭貨鋳造が行われず、12世紀以降渡来銭が貨幣として広く流通しました。16世紀後半には、こうした銭貨を「ヒタ(びた)」と呼んでいた例があります。
当時、「ヒタ(びた)」は良質とされた永楽通宝(明銭)よりは質が劣るものの、広く流通していた銭貨であり、必ずしも質の悪い銭という意味で使われていなかったと考えられています。
びた銭(鐚銭)が質の悪い銭という意味で使用されるようになったのは、これよりあとの時代とされています。

江戸時代のお金の単位はどのようなものですか?

江戸時代には、金貨、銀貨、銭貨の3種類の貨幣が使われていました(三貨制度)。
金貨は小判1枚=1両を基準として、それ以下を4進法の単位で表す貨幣(1両=4分=16朱)、銀貨は重さで価値を表す貨幣で基本単位は匁(1匁=10分≒3.75g)でした。銭貨(銅)は1枚=1文とする貨幣でした(1,000文=1貫文)。

三貨間の交換は幕府による公定相場(18世紀の公定相場:金1両=銀60匁=銭4,000文)がありましたが、 実際には時価相場で交換されていました。

日本最古の紙幣は何ですか?

江戸時代初頭の1600年頃に伊勢山田地方(現在の三重県伊勢市)で流通し始めた「山田羽書」です。
「山田羽書」は伊勢神宮の御師(神職)によって銀貨の釣銭代りに発行された、端数銀貨の預かり証です。それが同地域内で紙幣としての役割を果たすようになりました。「羽書」は「端数の書付」の意味を持っています。
その後、江戸時代を通じ各地の藩や商人などにより、各地域内で通用する藩札・私札などが大量に発行されました。

江戸時代の大判は何の目的でつくられましたか?

大判は軍用・賞賜・贈答などに用いるためのもので、江戸時代を通じて5種類(慶長・元禄・享保・天保・万延)の大判が発行されました。形態は豊臣秀吉がつくらせた天正大判を継承し、金の含有率は68%前後とほぼ一定でした(但し、元禄大判は52%、万延大判は37%)。大判の表面には「拾両」と墨書されていましたが、これは重さ(165g)を示すもので、小判10枚分という意味ではありません。両替の際には、金の含有量により換算され、近世前期は概ね7両2分に相当しました。

江戸時代の貨幣改鋳の目的は何ですか?

江戸時代は全期間を通じ度々貨幣の改鋳が行われ、金の含有量や重さの異なる小判や丁銀が発行されました。正徳・享保の改鋳を除き、それ以前に発行された貨幣よりも金の含有量や重量を落とす改悪が行われました。

改鋳の主な目的
1. 流通している貨幣の量や物価の調整
2. 改鋳で得られる利益による幕府の財政赤字の補てん
3. 傷んだ貨幣の回収と新しい貨幣との入れ替えなど

改鋳の結果、物価の高騰をもたらし、庶民の生活は困窮しました。なお、正徳・享保の改鋳では、元禄・宝永の改鋳がもたらした物価の高騰などを是正するため、慶長金銀と同じ金・銀の含有量に戻しましたが、貨幣流通量が減少し、物価の下落や経済の停滞を招きました。これを受けて、元文の改鋳では、金・銀の含有量を減少させることによって、貨幣量の適正化をめざし、その後、経済・物価は80年にわたり安定しました。

円という単位はいつから使われたのですか?

明治政府は1871(明治4)年に「新貨条例」を制定し、全国統一の新しい貨幣単位「円」(圓)を導入しました。金1.5g=1円とした近代洋式製法の新貨幣を発行し、「円」の1/100を「銭」、「銭」の1/10を「厘」としました。

「円」の起源
「円」(圓)の由来には諸説あり、以下のような説が挙げられている。
  1. 中国で西洋の円形銀貨を「銀円」「洋円」といっていたことが幕末に伝わり、金の単位「両」を「円」ということがあった
  2. 貨幣の形状を円形に統一したため「円」と名付けた
  3. イギリス香港造幣局の機械を譲り受け、香港銀貨の名称「円」(圓)を採用した

明治期の政府紙幣、国立銀行紙幣とはどのようなものですか?

政府紙幣は、明治初期に政府によって発行された紙幣のことです。最初に「両」単位の太政官札(1868<明治元年>)、次いで「円」単位の大蔵省兌換証券(1871年)、新紙幣(「明治通宝札」、1872年)、改造紙幣(「神功皇后札」、1881年)などが発行されました。

国立銀行紙幣は、明治初期に設立された民間銀行である国立銀行が発行した紙幣です。当初は、額面金額に相当する金貨との交換が義務づけられた兌換紙幣でしたが、その後、金貨との交換義務が撤廃され不換紙幣となりました。

1882年に日本銀行が設立され、日本銀行券(兌換紙幣)が発行されると(1885年)、流通する紙幣は順次日本銀行券に置き換わり、政府紙幣も国立銀行紙幣も1899年に通用停止となりました。

兌換紙幣とはどのようなものですか?

兌換紙幣は、発券主体が保有者の要求に応じて同額の金や銀と引き換える約束をもとに発行した紙幣のことで、日本では初期の国立銀行紙幣や戦前の日本銀行券などが挙げられます。1884年に公布された兌換銀行券条例により、日本銀行は、1885年から銀と交換ができる「日本銀行兌換銀券」を発行しました(銀本位制)。

1897(明治30)年、日本銀行券は金と交換ができる金兌換券(「日本銀行兌換券」)となりました(金本位制)。1931(昭和6)年には、日本銀行券の金兌換が停止されました。その後、1942年の日本銀行法制定によって、兌換制度が正式に廃止され、管理通貨制度に移行しました。

裏白券とはどのようなものですか?

第一次世界大戦が終わり、ヨーロッパ諸国が復興してくると、日本の輸出は減少し、各産業は不況になりました。1923(大正12)年には関東大震災にもみまわれ、日本経済は大きな打撃を受けました。そうした中、1927(昭和2)年に金融恐慌が起き、人々が預金の引き出しに殺到する取付け騒ぎが拡がり、日本銀行券が不足したため、急遽裏面の印刷を省いた200円券(裏白券)が発行されました。日本銀行は多額の日本銀行券を発行し、預金者の不安を鎮めることに努め、政府は3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発令するなどの対策を講じました。

昭和40年の1万円の現在価値はどのくらいですか?

日本銀行ホームページ「教えて!にちぎん 昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?」
をご覧ください。

銭という単位はいつまで使用されたのですか?

第二次世界大戦中の戦費や戦後復興費用等として巨額の財政支出が行われていたため、終戦直後の日本は激しいインフレに見舞われました。このため、「銭」単位の貨幣は、事実上、使用価値を失いました。その後、1953(昭和28)年に正式に「銭」が廃止され、通貨は「円」単位のみが使用されることになりました。