現時点におけるインフレ・ターゲッティングは時宜にかなった政策提言ではない:

物価安定を目指すための金融政策の枠組み*

日本銀行金融研究所

白塚 重典

* 『週刊金融財政事情』20001113日号への寄稿。本稿で示された意見・見解は筆者個人に属し、日本銀行あるいは金融研究所の公式見解を示すものではない。

 

 金融政策の最終目標は、ある国の経済が持続的成長を達成するための前提条件である「物価の安定」とされており、この点については、おおむね各国で共通の認識が生まれている。しかしながら、こうした物価の安定をどう実現するのか、そしてまずその物価の安定という概念を、金融政策の運営上どう定義すべきか、という点については、世界各国中央銀行や経済学者の間でもコンセンサスが形成されているとはいえない。実際、各国中央銀行の政策運営の枠組みを比較してみても、それぞれの置かれた経済・社会環境に応じて、多くのバリエーションがみられる。本稿では、筆者の最近の公表論文をもとに、物価安定の具体的な定義として「統計上の物価安定」と「持続的な物価安定」という2つの考え方があること説明し、金融政策を運営する上では、両者の整合性を担保する枠組みが重要であることを主張したい(注1)。その際、インフレーション・ターゲティング採用に関する伊藤隆敏氏の最近の議論を踏まえつつ、わが国の金融政策運営の枠組みに関する今後のオプションにも触れたい(注2)

 

若干プラスのインフレ率

 まず、金融政策が目指すべき望ましいインフレ率をどう考えるべきかを考えてみよう。この点については、「金融政策はゼロ・インフレではなく、物価指数の変化率でみて若干プラスの上昇率を目標として運営されるべきである」との有力な見解がある。現にインフレーション・ターゲティングを採用している国々では、インフレ目標値がおおむね03%程度のプラス・レンジの中に設定されている。この考え方の根拠は、

「物価指数の『上方バイアス』の大きさを加味した実質的なゼロ・インフレ」(注3)
  +
「デフレのリスクの大きさを考慮した糊代」

という形で、統計上では若干プラスのインフレ率を目指すことが望ましいと整理される。

 後者の「デフレのリスクの大きさ」については、主として以下のような三つのメカニズムが、インフレに比較した場合の経済調整を困難にすることが指摘されている。

@名目賃金の下方硬直性により、低インフレ下では実質賃金の調整(引下げ)が困難となり、均衡失業率が押し上げられるため、デフレ圧力が増幅される。

A予期せぬデフレは企業や金融機関のバランスシートを悪化させるため、金融システムの健全性を損ない、金融仲介機能低下を通じ、マクロ経済を収縮させる方向に作用する。

Bデフレ期待が強まると名目金利から期待インフレ率を差し引いた期待実質金利がむしろ上昇し、デフレ傾向を加速する惧れがある。しかし、名目金利はゼロ以下には引下げることができないとの「非負制約」が存在するため、名目金利の操作によりデフレ期待の高まりの影響を打ち消し、実質金利を引下げることは困難になる。

 このため、デフレとインフレを比較すると、デフレに対する政策対応の方がより難しいため、金融政策はインフレ率が低い状況のもとではデフレを未然に防ぐよう運営することが重要である、というのが経済学界でほぼ共通した認識となっていると思われる。

 

物価の安定の考え方

 では望ましいインフレ率は、中長期的にみると若干のプラスだとして、その中で目指すべき「物価の安定」とは、具体的にどのように考えればよいであろうか。筆者は、「物価の安定」を巡る考え方は大きく2つに分類できると考える。それは、「統計上の物価安定」と「持続的な物価安定」である。

 まず、「統計上の物価安定」では、物価の安定を特定の物価指数で数値化して表現する。例えば、「インフレ率が02%までを物価安定とする」といった形で物価変動に許容範囲を設ける、という考え方である。こうした考え方に立つ論者は、数値を公表すれば中央銀行の目標が誰の目からも明らかになり、中央銀行の責任もはっきりする、という点を強調する。

 他方、「持続的な物価安定」は、物価の安定をより広い概念として捉え、人々のインフレ期待の鎮静化を通じて持続的な経済成長を図るべきである、と考える。こうした考え方に立つ論者は、筆者自身を含め、単にある時点における特定物価指数の安定を達成することでなく、持続的な経済成長の基礎的な前提条件として、マクロ経済環境の安定を実現することが重要であるとする。しかし、インフレ期待の鎮静化はどのように計測するか、持続的成長のために必要とされる物価の安定を具体的にどう定義するか、といった点には必ずしもコンセサスがあるわけではない。

 

バブル期の経験

 したがって問題は、大きく分類して2つある物価安定という概念の関係をどう考えるか、ということになる。具体的なイメージをつかむため、バブル期の物価情勢を振り返ってみよう(図表)。バブル期当時、CPI上昇率は、1987年頃まで安定していたが、1988年頃から徐々に上昇し始め、消費税導入直前の19893月時点の前年比上昇率は1.1%となった。消費税を調整したベースでの上昇率をみると、19894月以降も上昇率は徐々に高まり、19904月には2%台、同年11月には3%台に達し、19918月まで3%台の上昇が続いた。

 

図表:物価上昇率の推移

備考:
1. 変化率は前年比、前月比共に、1989年4月の消費税導入、1997年4月の消費税率引上げの影響を調整した計数。

2. 前月比・年率換算値は、X-12-ARIMAで以下の季節調整オプションを利用して季節調整を実施。

計測期間:1980年1月〜1998年12月
レベル調整:1989年4月(消費税導入)、1997年4月(消費税率引上げ)
ARIMAモデル:(0 1 1)(0 1 1)12

資料:白塚[2000]、図6(総務庁『消費者物価指数』)

 

 こうした物価情勢をまず「統計上の物価安定」という定義から眺めてみると、2つの見方が可能である。第1は、大幅な金利引上げにもかかわらず生じた3%を超えるインフレ率を高いと判断し、物価安定が損なわれたとの見方である。第2は、逆にバブル期以前の水準から判断すると3%を超えるインフレ率も際立って高いとはいえず、物価安定は損なわれなかったとの見方である。両者の違いは、許容可能なインフレ率の水準をどのように考えるか、という問題に帰着し、判断は分かれうる。

 しかしながら、「持続的な物価安定」という考え方に立つと、日本経済はバブル崩壊期にはインフレ率が低下し、デフレ・スパイラルの危険に直面した。そうしたデフレ圧力は1980年代後半に発生したバブル経済の結果として生じた側面が大きい。したがって、バブル期の物価情勢を評価するうえでは、

「バブル期だけを考えると物価は安定していたとも考えられるが、物価安定を評価する期間を長く捉え、バブル崩壊期まで含めると、物価は安定していたとは言えない」

との視点が重要だと考えられる。このように、「統計上の物価安定」と「持続的な物価安定」はときに食い違うこともある。

 ここで、中央銀行にとって悩ましいのは、資産価格バブルを金融政策で食い止め、「持続的な物価安定」を図るためには、「統計上の物価の安定」が実現している段階で大幅な金利引上げが必要になる、との点である。バブルが十分拡大するには、金融緩和の継続が必要であるが、物価が上昇し始めれば金融緩和は継続されず、大規模な資産価格バブルも生じることはない。その意味で、香西泰氏ほかが指摘するように、物価の安定は(逆説的ではあるが)資産価格バブルの必要条件ということもできる(注4)1986年夏頃から日本銀行首脳は、「乾いた薪」という比喩で、潜在的なインフレのリスクを指摘していたが、こうした警鐘は、国民に対して十分説得的なものとなりえなかった。物価が表面的に安定している中で、大幅な金利引上げを実行するのは、そう簡単なことではない。

 

2つの物価安定の関係

 では、「統計上の物価安定」と「持続的な物価安定」の関係は、金融政策の運営上どのように考えていけばよいだろうか。

 日本銀行法2条には、「通貨及び金融の調節の理念」として、「日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」と規定されている。これは言い換えると、分かりやすさの観点から、何らかの尺度における物価安定(「統計上の物価安定」)が求められると共に、そのことを通じ、中長期的な経済成長を実現するための前提条件の提供(「持続的な物価安定」)が要求されている、ということになる。

 「統計上の物価の安定」という旗印を最初に掲げたニュージーランド準備銀行のシャービン副総裁は、「物価の安定それ自体は目的ではない。それは、目的のための手段である。物価安定が目標となっているのは、幅広い経済厚生(economic welfare)の向上に対して金融政策ができる最大の貢献だからである」と述べている(注5)。また、わが国でのインフレーション・ターゲティング採用を提唱されている伊藤隆敏氏も、「正統的なインフレ目標政策とは、(中略)『持続的な物価の安定』をめざしているといえよう」と述べている。

 したがって、金融政策が本来達成するべき物価の安定は「持続的な物価安定」である、という点は、立場を超えてコンセンサスができてもおかしくない。つまり、金融政策は、「持続的な物価安定」を目指すものであり、その実践上、「統計上の物価安定」を追求することにより、本来達成されるべき「持続的な物価安定」が阻害されることは回避されなくてはならない、という点は、金融政策の枠組みを超えた共通の考え方となりうる。こうした考え方に立てば、物価安定の数値目標を示しさえすれば金融政策の透明性が高まるというのはやや短絡的な議論といえるのではないか。

 

持続的な物価安定を目指すための政策枠組み

 2つの物価安定の概念の関係を考えると、最も望ましい金融政策運営の枠組みとは、「統計上の物価安定」にコミットすることで金融政策に信認が生まれるというプラス効果を減殺することなく、「持続的な物価安定」を目指すことを可能にするもの、ということになる。そして、両者の整合性を図るうえで重要なのは、原油価格の高騰など外生的なショックに柔軟に対処する裁量的な政策判断の余地を残しながらも、裁量的な判断の透明性を高め、中長期的な物価の安定へのコミットメントを確保するとの点にある。

 これをインフレーション・ターゲティングを例にとって考えてみよう。インフレーション・ターゲティングでは、目標インフレ率の公表・コミットメントに注目が集まりがちである。しかしながら、その運営においては、短期的なインフレ目標値(例えば02%まで)の達成を闇雲に目指しているわけではない。むしろ、短期的には、マクロ経済全体の安定化を図るため、外生的なショックに柔軟に対応し、一時的に目標レンジから逸脱することも許容される。さらに、そうした政策判断における裁量的な部分について、その透明性を高めるような仕組みが確保されている。

 こうした観点から、経済学界では、インフレーション・ターゲティングを「限定された裁量(constrained discretion)」と理解することが一般的となっている。しかし、アカウンタビリティを確保するうえで、どのようなコミュニケーション手段が重要であるかによって、「持続的な物価安定」と「統計上の物価安定」のバランスの取り方は異なってくる。つまり、「限定された裁量」を実現するための政策運営の枠組みは、インフレーション・ターゲティングに限られるわけではない。

 

日本銀行にとってのオプション

 このような議論を踏まえると、日本銀行にとって望ましい政策運営の枠組みは何かという問題は、「インフレーション・ターゲティングか、裁量か」という二者択一の議論とはならない。

 現在、日本銀行が採用している政策運営の枠組みは、開かれた独立性の理念のもとに情報開示を通じ、持続的な物価安定を第一義的な目標としつつ、短期的な経済ショックに対して適時適切な政策対応を行う「限定的な裁量」を目指すものと考えられる。言い換えれば、わが国の社会・経済環境を踏まえ、「統計上の物価安定」と「持続的な物価安定」の間に望ましいバランスをとる政策運営の枠組みを考えていこうというものである。

 最近、日本銀行が発表した「『物価の安定』について」というレポートでは、「現在、金融政策の運営上の指針としての『物価の安定』の定義を数値で示すことは適当でない」との判断を示している。すなわち、技術革新や規制緩和、流通革命等の供給サイドの要因が物価の下落圧力となっている現状のもとでは、短期的にみて望ましいインフレ率は、長期にわたってコミット可能な水準よりも低めのものとなっている、ということである。

 また、金融システムの不良債権問題が依然として大きな重石となっている中で、金融政策単独で「持続的な物価安定」と整合的な「統計上の物価安定」を短期的に追求していくことは困難である。金融政策では、構造問題を解決することはできず、その解決をサポートするために「時間を稼ぐ」ことしかできない、という点は銘記される必要がある(注6)

 いみじくも伊藤隆敏氏が指摘しているように、「インフレ目標は、(時期を選んで)いったん導入されれば、長期にわたって持続すべきものであり、景気状況によって破棄すべきものではない」(下線は筆者が付加)。上述したように構造調整が進行しているもとで、その収束後の状況を展望し、中長期的にコミット可能なインフレ率の数値目標を示すことは難しい。諸外国の例をならって、03%程度のレンジの中で適当な目標を掲げればよい、という程度の議論が責任のある政策提言につながるかは疑問といえよう。

 インフレーション・ターゲティング採用の可否は、ひとえに「統計上の物価安定」に対するコミットメントを表明することのメリットとデメリットの比較考量という問題になる。インフレーション・ターゲティングの提唱者は、メリットを強く主張する一方、デメリットに対する認識は不十分であるように思われる。

 筆者個人は、インフレーション・ターゲティングが理念通りに機能した場合のメリットについて強い共感を持っている(注7)。しかしながら、現時点における日本の金融・経済情勢を勘案すると、こうした状況のもとでインフレーション・ターゲティング採用を提言することが、時宜に適った政策提言であるとは思われない。


(注)1. 「望ましい物価上昇率とは何か?:物価安定のメリットに関する理論的・実証的議論の整理」、日本銀行金融研究所ディスカッション・ペーパー、No. 2000-J-2220008月(原文は金融研究所ホームページhttp://www.imes.boj.or.jpから入手可能)。

2. 伊藤隆敏、「日本におけるインフレ目標政策」(深尾光洋・吉川 洋編、『ゼロ金利と日本経済』第3章、日本経済新聞社、2000年)では、あわせて収録されている翁 邦雄・白塚重典・藤木 裕、「ゼロ金利政策:現状と将来展望―中央銀行エコノミストの視点―」(同書第2章)におけるインフレーション・ターゲティング採用のメリット・デメリットに関する議論に対する反論が示されている。

3. 物価指数については、真の物価変動を過大評価しているとの上方バイアスの問題が指摘されている。この点については、拙著『物価の経済分析』(東京大学出版会、1998年)で、問題の包括的な検討を加えた上で、上方バイアスの大きさについて定量的な評価を試みている。

4. 香西 泰・伊藤 修・有岡 律子、「バブル期の金融政策とその反省」、日本銀行金融研究所ディスカッション・ペーパー、No. 2000-J-27200010

5. Sherwin, Murray, “Inflation Targeting: 10 years on,” Speech at the New Zealand Association of Economists Conference, Rotorua, New Zealand, July 1, 1999.

6. この点については、山口 泰、「金融政策と構造政策:日本の経験」(『日本銀行調査月報』199911月号)、白川方明、「金融政策は構造政策までは代替できない」(『週刊ダイヤモンド』2000129日号)を参照。

7. インフレーション・ターゲット採用のメリットに関する筆者自身の論文としては、白塚重典・藤木 裕、「ウォルシュ・スベンソン型モデルについて─インフレーション・ターゲッティングの解釈を巡って─」(『金融研究』、第16巻第3号、日本銀行金融研究所、1997年、33-59頁)がある。