◎ 『金融研究』巻頭エッセイ ◎
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『金融研究』巻頭エッセイ 第1シリーズ 「貨幣の歴史」
1−9 人参代往古銀  −銀貨への二重価格の摘用−
人参代往古銀 人参代往古銀
宝永7(1710)年
 表面には他の丁銀と同様に大黒天像と「寳」字の極印がある。 朝鮮貿易専用に鋳造されたこともあって、この銀貨は当時流通していた宝永期の丁銀(品位50%から20%)に比べ遥かに良質で、その品位は慶長丁銀なみの80%となっていた。
宝永四つ宝丁銀 宝永四つ宝丁銀
正徳元(1711)年
 宝永3(1706)年以後の僅か5年の間に、4回にわたって銀貨の品位が引下げられた。 なかでも、銀20%と品位が最も低い丁銀は、表面に「宝」字が4個打刻されたことにちなんで、「四つ宝丁銀」と呼ばれている。
人参代往古銀
 対馬藩は朝鮮人参や中国産生糸等の輸入対価として丁銀を使用していたが、 慶長丁銀に比べて質の悪い宝永丁銀は朝鮮側から受取を拒否された。 このため、徳川幕府は宝永7(1710)年、薬用朝鮮人参輸入を名目に 朝鮮貿易専用の良質な丁銀の特別鋳造を許可した。

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 徳川幕府では寛永16年(1639)、銀の大量流出防止を目的として鎖国という貿易管理政策を完成させた。しかし、生糸に対する根強い国内需要を前にしては、その交易品である銀の流出をくい止めることはできなかった。白生糸という良質な中国産生糸の輸入ルートは、寛文2年(1662)のオランダ商館の台湾撤退に伴い、それまでの台湾一長崎ルートに代わって対馬藩を媒介とする朝鮮一対馬ルートが重要となった。寛文8年(1668)の銀輪出禁止によって長崎ルートが閉鎖された後は、銀の流出経路も対馬藩へと全面シフトした。
 このようにして、徳川幕府が成立した慶長期以後約100年の間に、わが国で生産された銀・銀貨の4分の3、慶長丁銀110万貫という莫大な量の銀が海外に流出したといわれている。その一方で、国内での銀産出量が激減したため、徳川幕府では、折からの財政難および銀不足の克服を目的として、元禄・宝永期にかけて金銀貨の品位(純度)や量目(重さ)を落とすという改鋳を実施した。とりわけ銀貨に関しては、宝永期(1704〜11)に4度にわたって品位が引き下げられ、最も劣悪な四ツ宝丁銀の品位は20%にまで低下した。
 徳川幕府では、対馬藩経由の朝鮮貿易においても、品位の引き下げられた丁銀を引き続き利用した。しかし、度重なる改鋳により品位が50%を割り込むと、国際商品としての通用性を欠くとして朝鮮から丁銀の受け取りを拒否された。こうした事態の打開を狙いとして、徳川幕府では宝永7年(1710)、薬用上不可欠な朝鮮人参を輸入するための交易手段という名目で「人参代往古銀」と称される朝鮮貿易専用の良質銀貨(品位80%)を鋳造した。
 このように貿易専用銀貨を鋳造するということは、内外の銀価格を異にする価格差別政策の採用を意味するが、当時は、幕府が金銀を一元的に管理し、鎖国という内外遮断措置が採られていたため、そうした政策の実行が可能となっていた。人参代往古銀は、約5年間鋳造されたが、正徳4年(1714)の改鋳で銀貨の品位が引き上げられ、良質な貿易専用銀貨の鋳造が必要とされなくなるに及んで鋳造停止となった。その後、元文元年(1736)の改鋳により銀貨の品位が引き下げられたのを契機として再び鋳造されたが、生糸、砂糖、朝鮮人参などの主要輸入物資の国内自給体制が確立された18世紀後半になると、人参代往古銀はその役割を終え、鋳造は停止された。
[藤井典子、日本銀行金融研究所研究第3課]
『金融研究』第16巻 第4号, 日本銀行金融研究所, 1997年
【参考文献】
田代和生 「徳川時代の貿易」、『日本経済史T』、岩波書店、1988年
日本銀行調査局編 『図録日本の貨幣』第2巻、東洋経済新報社、1972年
田谷博吉 『近世銀座の研究』、吉川弘文館、1963年

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