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| 『金融研究』巻頭エッセイ 第1シリーズ 「貨幣の歴史」 |
| 1−8 元禄・宝永・正徳・享保・元文小判 −徳川幕府の改鋳− |
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| 慶長小判 重量 約17.9g 品位 約84〜87% |
元禄小判 重量 約17.9g 品位 約57% |
宝永小判 重量 約9.4g 品位 約84% |
享保小判 重量 約17.9g 品位 約87% |
元文小判 重量 約13.1g 品位 約66% |
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| 元禄小判には「元」、宝永小判には「乾」、元文小判には「文」と、裏面にそれぞれ時代を表す文字が入っているが、慶長、正徳、享保小判には入っていない。ここでは正徳小判を省略したが、享保小判とほとんど区別がつかない。 | ||||
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金銀鉱山の産出量は元禄期(17世紀末)までに大きく減少をみた。また、寛文4年(1664)の金輸出解禁に伴い、銀貨に加え金貨もかなりのペースで流出した。一方、国内経済の成長・発展とともに貨幣に対する需要はさらに高まり、そうしたなかで17世紀後半になると通貨不足が深刻な経済問題として登場してきた。このような事態への対応や幕府財政の建て直しを狙いとして元禄期以降、金銀貨の品位(金銀含有率)や量目(重さ)を変更するという貨幣の改鋳が実施された。なお、改鋳の実行は、鎖国という貿易管理政策の実施に伴う内外金銀市場の遮断により支えられていた。 徳川幕府は元禄8年(1695)、金銀貨の品位を引き下げる改鋳に踏み切った。この改鋳によって作られた元禄小判の品位は約57%と、それまで流通していた慶長小判(84〜87%)の3分の2にまで引き下げられた。元禄小判は、品位が低いにもかかわらず、慶長小判とほぼ等価でしか交換しなかったため、引替は順調には進まなかった。宝永7年(1710)に発行された宝永小判は、品位が84%に引き上げられた一方で、量目が約2分の1にとどめられたため、純金含有量は元禄小判をさらに下回る結果となった。これらの改鋳に伴い、幕府財政の再建は大きく進んだが、貨幣供給量の増大に伴うインフレ発生を背景として庶民生活が困窮する事態も生じた。 幕府は正徳4年(1714)、新井白石の建議に基づき金銀貨の品位・量目の引き上げを図ることとし、慶長小判とほぼ同じ品位・量目の正徳小判を発行し、古金貨との交換を促した。しかし正徳小判の品位は慶長小判を下回るのではないかという風評が立ったことから幕府は翌年、正徳小判よりも若干品位を高めた享保小判を鋳造した。このような改鋳と幕府の厳しい緊縮財政の結果、貨幣量は大きく減少し、経済活動は停滞するとともに、物価は大きく下落した。とりわけ米価の下落は、農民や武士の生活に深刻な影響を及ぼした。8代将軍吉宗は元文元年(1736)、景気の刺激や物価の引き上げを狙いとして金銀貨の品位を落とし貨幣量を増加させる改鋳を断行した。元文小判の場合、小判の質を落としたことは元禄・宝永の改鋳と同じであったが、新旧交換に際しては改鋳差益の大部分を還元して大幅な割増しを付けたため、折からの通貨不足を解消したほか、経済情勢も好転し、その後約80年間にわたって金銀貨の価値を安定的に推移させたことから、江戸期経済の発展を貨幣流通面から支えたと評価されることが多い。 |
| [大貫摩里、日本銀行金融研究所研究第3課] 『金融研究』第16巻 第3号, 日本銀行金融研究所, 1997年 |
| 【参考文献】 日本銀行調査局編 『図録 日本の貨幣』第3巻、東洋経済新報社、1974年 久光重平 『日本貨幣物語』、毎日新聞社、1976年 三上隆三 『江戸幕府・破産への道』、NHKブックス、1991年 |