◎ 『金融研究』巻頭エッセイ ◎
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『金融研究』巻頭エッセイ 第1シリーズ 「貨幣の歴史」
1−7 寛永通宝・天保通宝 −江戸時代の銭貨−
寛永通宝銅一文銭 寛永通宝銅一文銭 寛永通宝真鍮四文銭
寛永通宝(銅一文銭)
寛永13年/1636
直径約24mm 重さ約3.75g

寛永通宝(銅一文銭)
寛文8年/1668
直径約24mm 重さ約3.6g
裏に「文」の字があることから
「文銭」と呼ばれた。
寛永通宝(真鍮四文銭)
明和5年/1768
直径約27mm 重さ約4.9g
翌年から裏面の波数の減った
ものが鋳造された。
寛永通宝
徳川幕府の公鋳銭貨として江戸時代初期から明治初年に至るまでの約300年の間、全国各地の鋳銭所において鋳造された。
 
天保通宝
天保通宝(百文銭)
天保6年/1835

たて約49mm 横32mm 
重さ約20.6g
天保通宝
江戸時代末期に鋳造された額面百文の銭貨。素材価値は銅一文銭の5枚半程度しかなく、額面との差が著しいことから各地で密鋳が行なわれた。

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 わが国に大量流入した渡来銭(中国銭)は、国内通貨として経済発展を支払決済面から支えていた。しかし、15世紀後半以降、「われ」「かけ」といった質的劣化が進んだ渡来銭のほか、朝鮮・琉球・安南から流入してきた銭貨や、国内で鋳造された私鋳銭もみられるなど、わが国においては多種多様な銭貨が流通していた。このため、銭貨の統一は容易なことではなく、徳川幕府による銭貨統一は、金・銀貨の鋳造から35年を経た寛永13年(1636)における「寛永通宝」の鋳造まで待たなければならなかったのである。
 徳川幕府は、撰銭という通貨選別行為の解消を目的として、慶長9年(1608)、計算基準貨幣として重要な地位を占めていた永楽銭と鐚銭との交換比率を1対4と定め、永楽銭以外の鐚銭についてはすべてその4分の1の価値での通用を強制した。こうした施策の実施にもかかわらず、撰銭の慣行はなくならなかったため、慶長13年(1608)12月、徳川幕府は永楽銭の基準貨幣としての取り扱いを廃止し、すべての銭貨の通用価値を鐚銭のそれに統一するとともに、金1両=銀50匁=銭4貫文という江戸時代幣制の基礎となった交換比率を定めた。しかしながら、撰銭はなかなか解消しなかった。
 寛永13年(1636)、徳川幕府は寛永通宝の鋳造・発行に踏み切るとともに、古銭(渡来銭・私鋳銭)の回収に努めた。その後、寛永通宝は、銭座の増設などを媒介として大量に鋳造されたこともあって寛文期にはほぼ全国に浸透し、寛文10年(1670)、寛永通宝以外の銭貨の通用が禁止された。この間、寛永通宝との交換により回収された古銭のほとんどは、現物のまま、あるいは北宋銭に鋳直されて東アジア諸国へ輸出されたとされている。
 寛永通宝は、全国各地の商人による請負制によって鋳造されたため、大きさや銭容は多種にわたった。また18世紀入り後、折りからの銅不足から、鉄や真鍮を材料として一文銭、四文銭も鋳造された。さらに幕末になると、天保6年(1835)には、額面百文の「天保通宝」という大型銭貨も造られた。
[大貫摩里、日本銀行金融研究所研究第3課]
『金融研究』第16巻 第2号, 日本銀行金融研究所, 1997年
【参考文献】
中島圭一「西と東の永楽銭」石井進編『中世の村と流通』吉川弘文館、1992年
日本銀行調査局編『図録 日本の貨幣』第2・4巻、東洋経済新報社、1972、 1973年
三上隆三『江戸の貨幣物語』、東洋経済新報社、1996年

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