| 第52話 管理通貨制度への移行
第一次世界大戦中の大正6年(1917)9月、アメリカの金輸出禁止措置に追随して、わが国も金の輸出を禁止した。その後、日本の金本位制は事実上停止されたまま推移したが、昭和5年(1930)1月、民政党浜口雄幸内閣は13年ぶりに金輸出を解禁した。この結果、わが国は、欧米諸国に数年遅れて1ドル=2円という旧平価で金本位制に復帰した。金本位制への復帰は日本にとって長年の宿願であったため、その日は新しい時代の到来として一般国民からも好意をもって迎えられた。ちなみに、お札を日本銀行に持っていけば、誰でも金貨と兌換してもらえるようになったため、金貨みたさに多数の人々が同行の窓口に押し寄せ、非常に混雑したと伝えられている。
時の蔵相井上準之助は、旧平価での金解禁は産業の合理化を進め、日本経済の競争力向上につながるとして、金解禁とともに財政支出の大幅な削減を中心とした強力なデフレ政策を推進した。物価が下落すれば、輸出の伸長、輸入の抑制を通じて国際収支の均衡が図れるという古典的な金本位制の自動調整機能が信奉されていたからである。しかし不幸にも、金輸出解禁の実施タイミングは最悪であったということができる。
前年の1929年11月のアメリカ・ウォール街における株価暴落を契機として世界景気は未會有の不況に突入し、海外の物価が日本以上に大きく下落したため、輸出は期待したほど増大しなかったのである。加えて、旧平価に対し円がとくに弱かった時期に金本位制への復帰が発表されたため、物価と輸出が急速に低下し、大量の金が輸出解禁とともに海外に流出してしまった。こうしたなかで日本経済は、当初の期待とは裏腹に底なしの不況に苦しむことになった。街には失業者が溢れ、大学を出ても就職口を見つけるのは容易なことではなかった。そして翌6年、イギリスが金本位制度を離脱したことを契機として、わが国も同年12月再び金の輸出を禁止し、日本銀行券の兌換も原則として停止された。
昭和16年(1941)3月、日華事変の拡大とともに増大する戦費調達のため、兌換銀行券条例臨時特例法が制定され、日本銀行は正貨保有高による制約を受けることなく兌換銀行券を発行できるようになった。さらに、翌17年には新たに制定された日本銀行法により法律上も兌換義務がなくなった。ここにおいて、わが国は名実ともに金本位制から管理通貨制度へと移行し、日本銀行券からも兌換の文字が消えた。なお、日本銀行法制定までの間、日本銀行券の券面には引き続き兌換文言が記されていたが、昭和6年以来、兌換は行われなかった。
この間、昭和13年(1938)には臨時通貨法が制定され、政府は新素材、新形式の補助貨幣を自由に発行できるようになった。銀、ニッケルなど旧来の金属素材の入手が困難化したからである。これを受け、十銭アルミニウム青銅貨、十銭アルミニウム貨、十銭錫貨、50銭の小額政府紙幣などが次々と発行された。太平洋戦争末期になると、日本銀行券に関しても印刷様式を極度に簡略化したものが発行された。このほか、補助貨素材金属の極端な不足に対応して、昭和19年には小額貨幣に代えて10銭、5銭という「円」未満の日本銀行券が発行された。また、戦争末期の昭和20年には粘土を原料とする陶貨がつくられたが、終戦となったため、結局、発行されなかった。
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