◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第51話 金融恐慌と裏白紙幣

 昭和2年(1927)3月15日、わが国未曾有の金融恐慌が発生し、多数の銀行が取り付けに遭うとともに休業を余儀なくされた。この金融恐慌は、第一次世界大戦後の反動不況の下で日本経済が抱えていた諸問題が複合して生じたものであるが、より直接的には、関東大震災の際に支払いを猶予された震災手形の処理をめぐる政党間の紛糾を契機としていた。すなわち、政府・日本銀行では、関東大震災時に一定の条件を付けて決済を控えた手形を震災手形に認定のうえ、特別な資金の融通と損失の補償を行った。この震災手形は4億3000万円以上と巨額なものであっただけに、猶予後速やかに決済を履行するのは容易なことではなかった。このため、震災手形の支払猶予期間は再三にわたって延長され、昭和2年9月末が最終期限となっていた。しかし、日本経済はなお慢性的不況から脱することができなかったため、政府では同年1月、政府補償によって震災手形の整理を進めることとし、震災手形損失補償公債法案および震災手形善後処理法案を議会に提出した。
 ところが、3月14日、当時の複雑な政界事情もあって震災手形関係法案が政争の具に供せられるなかで、議会での審議中に片岡直温蔵相が突然、「渡辺銀行が支払いを停止した」と発言した。この失言を契機として、東京渡辺銀行およびその姉妹銀行のあかぢ貯蓄銀行が翌15日臨時休業に追い込まれた。それがまた、預金者の不安心理を煽るかたちで他の銀行にも波及し、各地で預金の取り付け騒ぎが頻発し、多くの銀行が休業に至った。
 東京、横浜を中心として発生した取り付けは、震災手形関係法の成立と日本銀行の緊急融資によりひとまず鎮静化した。しかし、震災手形が集中していた鈴木商店や台湾銀行の苦境が明らかになるなかで再び取り付けが発生し、4月8日、鈴木商店と深い関係にあった神戸の第六十五銀行が休業に追い込まれた。政府は緊急勅令を発して台湾銀行を救済しようとしたが、枢密院の承諾がえられず、若槻内閣は瓦解し、同月18日には台湾銀行の内地支店が休業となった。若槻内閣の後を継いだ田中義一内閣は、事態を終息させるべく、4月22日にとりあえず銀行を2日間臨時休業させることとしたほか、日本銀行による応急の貸し付けを実施するとともに、3週間のモラトリアム(支払猶予)を公布した。これを契機として、金融恐慌はようやく鎮静化した。
 預金者の不安心理を一掃するためには、単純ではあるが、現金を銀行の窓口に高く積み上げるのが最も有効な方策であった。このため、各銀行とも担保のある限り日本銀行から緊急融資を受け、現金を引き出し、預金の支払いに当てようとした。その結果、日本銀行も銀行券在庫がほとんど払底してしまうという事態に追い込まれた。こうしたなかで急遽決まったのが、銀行券の裏面の印刷を省略した200円という高額券の発行であった。この日本銀行券は、裏面が白であったことにちなんで裏白紙幣と呼ばれた。大蔵省印刷局も事態の緊急性を考慮のうえ一昼夜で大量の裏白紙幣を製造するよう努めた結果、幸いにして渡すべき現金がないという奇態が発生するには至らなかった。また、日本銀行が市中銀行あてに救援資金を現送するに際しても、大量のお札が到来したことを誇示すべく、見せ金として空の兌換箱を輸送車に数多く積んだり、護送員も日本銀行を示すメダマの印半纏を着用するなど、種々の工夫が凝らされた。

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