◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第47話 日本銀行の創設

 明治4年の新貨条例は金銀貨による幣制の統一を目標としていたが、折りからの貨幣素材不足や造幣能力の不十分さもあって、金銀貨の鋳造高は当初計画を大幅に下回る水準にとどまっていた。このため、金銀貨に代わる支払手段として、政府紙幣や国立銀行券などの不換紙幣が大量に発行された。しかし、その一方で、藩札や古金銀貨の整理・回収による通貨収縮もあって、明治9年ごろまではインフレが発生することもなかった。
 ところが、明治10年の西南戦争は、そうした事態を一変させた。政府では戦費調達のため、合計4200万円、明治9年末の紙幣流通残高(1億500万円)の約4割に相当する政府紙幣・国立銀行券を増発した。その結果、当然のこととして大インフレが発生し、例えば東京の米価は玄米1石が明治10年の5円15銭から14年には10円48銭へと4年間で倍増をみた。物価の上昇はまた、輸入の増大を通じて貿易赤字を拡大させ、正貨準備の減少を招来した。正貨準備の減少は為替相場の下落を通じてさらに物価を高騰させるというかたちでインフレがスパイラル的に高進し、そうしたなかで社会不安が増大していった。
 これに対し、大蔵卿として財政運営を担当していた大隈重信は、生産基盤の充実を通じて通貨の安定を図るべきという立場を堅持し、紙幣収縮提案については日本経済に深刻なデフレ効果を及ぼすとして退けた。そして、外債発行で調達した正貨で増発された紙幣を交換回収することを提案したが、強烈な反対にあい、明治14年10月に失脚するに至った。新たに大蔵卿に就任した松方正義は、インフレ収束を狙いとして、増税、歳出削減という緊縮財政措置を果断に実施し、そこで生じた財政剰余金を紙幣の回収整理に投入した。その結果、インフレは鎮静化したが、一方で日本経済は深刻なデフレに見舞われることになった。
 この紙幣整理の過程で、紙幣の濫発を防止するとともに通貨価値の安定を図るためには、紙幣発行権限を政府から独立させるとともに、兌換銀行券の一元的な発行制度を整備することが重要であるという認識が高まった。そして明治15年10月、ヨーロッパ先進国の中央銀行制度にならって日本の中央銀行として日本銀行が設立された。もっとも、日本銀行の創立当時は紙幣と銀貨との価格が大きく乖離しており、そうしたなかで兌換銀行券を発行すると兌換請求が相次ぐとみられたため、兌換銀行券の発行は見送られた。その後、紙幣整理の進展などを背景として紙幣と銀貨との価格差がほぼ解消した機会をとらえ、明治18年5月、日本銀行は銀行券の発行を開始した。
 日本銀行券は本位貨幣である一円銀貨との兌換が約束された兌換銀券であり、最初の日本銀行券は大黒天が描かれていたことにちなんで大黒札と呼ばれる。大黒札の場合、紙の強靱性を増すべく混入された蒟蒻(こんにゃく)の粉が予想外の虫害・鼠害を招いたほか、インクが温泉地で黒変するなどの欠陥が現れたため、5年ほどで改刷された。一方、国立銀行券と政府紙幣は漸次市中から引き揚げられ、消却された。そして、流通残高が大きく減少するなかで明治32年末、国立銀行券と政府紙幣の通用停止が宣言され、ここにわが国の紙幣は日本銀行券に統一された。日本銀行の創設は貨幣制度の統一および兌換制度の確立を図るうえでの制度的基礎を形成し、その後、日本経済の近代化を金融取引面から支えることになった。

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