◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第46話 内ニ紙幣・外ニ墨銀

 前回までは、国内的な観点を中心として江戸期幣制から近代貨幣制度の確立に向けた動きについて述べてきた。しかし、それだけで十分とはいえない。当時の日本は幕末以来の外交政策として対外開放政策を堅持していたため、明治30年代に近代幣制が確立されるまでの間、海外との軋轢や摩擦が日本の貨幣制度の展開に大きな影響を及ぼしたのであった。今回は、そうした国際的な貨幣問題と政府の対応について説明しよう。
 最初は太政官札である。不換紙幣として発行された太政官札の通用価値は、先に述べたように発行後間もなく大きく減価した。日本在住の外国商人も、太政官札を受け取った。しかし、政府では、外国商人による公課納付に際し、対外準備の確保を狙いとして金銀貨での支払いを求め、太政官札による支払いを拒否したほか、金銀貨との交換要求にも一切応じなかった。太政官札の流通価値下落に伴い大幅なキャピタル・ロスを蒙った外国商人は、正貨兌換を求めて日本政府に激しく抗議するなど、太政官札の通用価値下落は外交問題にまで発展したのであった。
 これに対し政府は明治元年12月、太政官札の時価通用の容認などにより事態の打開を図ろうとした。しかし、それらの施策は、濫発と相俟って当初の期待とは裏腹に太政官札の価値下落に拍車をかけた。そうしたなかで政府は2年5月、5年までに太政官札を新たに発行する金貨と交換することを公約した。この公約は先に述べたように無視され、太政官札に代わる明治通宝札も引き続き不換紙幣として発行された。外国政府は、このような弥縫策に満足せず、日本政府に対し金兌換公約の履行を迫った。したがって、明治5年の国立銀行条例は、太政官札の兌換紙幣化という海外からの強い要求に応えるために導入されたということもできる。
 次は、銀本位制への揺り戻しである。日本は当初、銀本位制の採用を内定していたが、欧米主要国への追随や両から円へのスムーズな移行を狙いとして金本位制が選択された。しかし、日本の主要貿易相手国であるアジアの国々は銀遣いにあったことから、対外決済手段としては銀貨が引き続き必要とされた。このため、本位貨幣である金貨に加え、補助貨幣として一円銀貨も鋳造されることになった。一円銀貨は、アジア間貿易の決済手段であったメキシコ・ドル銀貨(墨銀)とほぼ同一の品位・重量を有し、補助貨幣であるにもかかわらず、開港場では無制限通用が認められた。このことにちなんで、一円銀貨は一般に貿易銀と呼ばれた。貿易決済における銀貨の優位性を反映するかたちで、国内取引でも銀貨が決済手段として利用される頻度が高まった。このため、政府としても一円銀貨の国内無制限通用を認めざるを得なくなり、相互承諾を条件として一般の国内取引でも銀貨の無制限使用が認められた。
 この間、日本では国際相場との比較において銀が割高であったため、外国資本の裁定取引を媒介として明治7年以降、金が流出する一方、銀が流入した。金流出への対応措置として明治11年、貿易銀は国内でも無制限に通用する本位貨幣とされ、わが国の通貨制度は金銀複本位制、事実上は銀本位制へと転化させられた。銀遣いが支配的なアジア経済圏で日本がひとり金本位制を採用すること自体、維持困難な選択だったのであった。

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