| 第45話 国立銀行の創設
前回述べたように、明治政府では当初、為替会社による兌換紙幣の発行を媒介として、不換紙幣である太政官札の回収・消却および兌換券による紙幣の統一を図ろうとした。しかし、兌換準備高に関しては明確な規定を欠いていたこともあって、通貨発行益の獲得を狙いとして為替会社各社が一斉に紙幣の増発に走ったため、政府の目論見は大きく崩れることになった。こうしたなかで、新しい発券制度の確立あるいは発券銀行の設立が強く求められるようになったのである。政府では大蔵少輔伊藤博文の建議に基づき、アメリカのナショナル・バンク制度にならった発券銀行制度を導入することとし、明治5年11月、国立銀行条例を制定した。そして、国立銀行4行が設立され、銀行券発行が始まった。
国立銀行という名称は、第一国立銀行の初代頭取となった渋沢栄一によりナショナル・バンク(連邦法に準拠して設立された銀行)の訳語として作られたが、国立銀行は政府とは資本関係のない、純然たる民間の銀行であった。最初に設立された国立銀行は、第一国立銀行、第二国立銀行、第四国立銀行および第五国立銀行の4行からなり、このうち第二国立銀行は横浜為替会社からの転業であった。このように国立銀行には内認可順に番号が付されたが、第三国立銀行は存在しない。なぜだろうか。第三国立銀行は、江戸時代の大手両替商であった鴻池善右衛門などからの出資をえて大阪に設立される予定にあったが、第1回の株主総会が紛糾し、営業開始に至るまでに解散の憂き目にあったからである。
国立銀行は、資本金の60%を太政官札などの政府紙幣で政府に納入し、その見返りに同額の銀行券の下付を受け、本位貨幣で払い込んだ資本金40%を兌換準備として銀行券を発行した。国立銀行が発行した銀行券は政府から下付されたという事情から、発行銀行の如何にかかわらず、その形式は同一であり、発行銀行名のみが異なっていた。当時の日本は西洋式の紙幣を印刷する技術を欠いていたこともあって、初期の国立銀行券(旧券)はアメリカの印刷会社に委託して製造された。このため、国立銀行券の規格、デザイン、色彩などはアメリカのナショナル・バンク紙幣に酷似しており、両者を見紛う人も多い。
国立銀行券は当初、順調に流通していたが、明治7年7月以降、流通高は急減し、9年6月にはほとんど流通界から姿を消した。増発に伴う政府紙幣の減価、正貨流出による金価格の高騰が国立銀行券の金兌換を促したからである。例えば、8年6月には金貨1000円をえるには政府紙幣1017円が必要とされるほど、金貨が騰貴したため、金兌換の国立銀行券は発行と同時に窓口で金貨に兌換され、銀行に戻ったのであった。そうしたなかで国立銀行は莫大な損失を蒙り、銀行紙幣が金庫のなかに死蔵される一方、銀行数はほとんど増加しなかった。
その後、明治9年に国立銀行条例が改正され、事実上不換紙幣の発行が認められた。この結果、各地で国立銀行を設立する動きが相次ぎ、3年後の明治12年末には153行を数えるなど、銀行数は一挙に増大した。このようにして国立銀行制度は漸次定着していったが、その一方で、不換紙幣の整理という国立銀行創設の目的達成は先送りされることになった。
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