| 第44話 為替会社と為替会社紙幣
明治政府は明治2年、内外商業の振興を目的に設立された通商司の下部組織として、通商会社と為替会社を東京・大阪・京都・横浜・神戸・大津・新潟・敦賀の全国8都市に各1社ずつ設立した。通商会社および為替会社が全国8か所に設けられたのは、当時の日本においては国民経済の統合が完全には進んでおらず、地域経済の独自性がなお強かったという事情を背景とする。そして、これらは三井、小野といった各地の富商が出資した一種の会社組織として設立されたが、出資者の有限責任制が確立していないなど、株式会社とはいえない共同企業であった。
為替会社は、商業取引の円滑化を任務とした通商会社に対する金融面からの支援を目的とし、政府からの貸し下げ金・発行兌換券(為替会社紙幣)などで調達した資金を原資に、通商会社やその傘下の商社に対する貸し付けや為替の引き受けを行っていた。政府からは貸し下げ金として巨額の太政官札が為替会社に貸与されたため、運転資金の大部分は太政官札が占めた。このように、通商会社と為替会社は、表面上は商業振興を目的としていたが、実態的には為替会社による貸し付けを経由して信用力の劣っていた太政官札の流通性を向上させることや、兌換券である為替会社紙幣を太政官札に代わる支払手段として広く機能させることを狙いとしていた。
為替会社という名称は「バンク」の訳語として考案されたものであり、実際、英文表記ではバンクと名乗っていた。為替会社は政府から紙幣発行権を賦与され、兌換銀行券的性格の強い金券・銀券・銭券のほか、ドル表示の洋銀券を発行していた。為替会社はこのほか、預金、貸出、為替、両替などの金融業務を営んでおり、その意味でわが国近代銀行の始まりとされている。為替会社により発行された為替会社紙幣はすべて兌換券とされたが、兌換準備高に関しては特別の規定がなかった。このため、各社とも通貨発行益の獲得を狙いとして、紙幣の増発に走ったことから、その発行高は1年も経たないうちに500万両を超える巨額な規模に達した。このような為替会社紙幣の過剰発行を前にして政府では、その兌換性に危惧の念を抱き、兌換準備を確実なものとすべく紙幣発行高を制限する方針に転じた。第1段として出資金を基準とした発行限度額規制が導入され、次いで100%準備が義務づけられたのである。
為替会社紙幣の増発は、利鞘の大きかった旧大名や藩士など旧士族向けの救済融資の実行により支えられていた。しかし、明治4年7月の廃藩置県に伴い貸し付けのかなりの部分を占めていた旧士族向けがなくなった一方で、紙幣発行に制限が課されたこともあって為替会社の業績は急速な悪化を余儀なくされた。加えて、政府による民間金融機関育成策も、為替会社からアメリカ流の国立銀行制度の創設へと次第にシフトし、明治5年の国立銀行条例の制定とともに為替会社の命運もきわまることとなった。国立銀行条例により国立銀行以外の紙幣発行が禁止され、為替会社紙幣は流通停止のうえ正貨との引き替えが義務づけられたからである。
そうしたなかで、横浜為替会社を除く各社すべてが解散することになった。そして、金券を中心とする為替会社紙幣の支払いは政府が補償し、1両=1円の割合で新紙幣に交換回収された。
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