◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第43話 政府紙幣の発行と旧貨の整理

 明治維新直後に発行された太政官札は、いずれ新貨条例に基づき発行された新貨幣(金貨)に兌換されることになっていた。しかし、財政基盤が脆弱な明治政府には、そうした余裕がなかった。さらに財政窮迫や新貨幣不足が著しかったこともあって、明治4年10月、政府は為換(かわせ)座三井組の名義で大蔵省兌換証券、開拓使兌換証券というわが国最初の円単位紙幣を発行した。これらの紙幣は、正貨(二分金)との兌換が保証されていたため、流通力がきわめて高かったが、開港場では兌換請求が多額にのぼり、発行開始後わずか5か月で総発行高の2割が兌換回収された。しかし政府では、財政上の理由から兌換した証券を廃棄せずに再び発行して歳出に充当したため、その流通残高が大きく減少することはなかった。
 このように新貨条例の公布後も、財政赤字補填のために紙幣が発行されるなど、多種多様な紙幣が引き続き大量に流通していた。したがって、近代経済社会建設のためには、紙幣についても貨幣と同様に速やかに統一を図ることが求められた。そこで政府では明治5年4月、ドイツのドンドルフ社に印刷を委託した西洋式の新紙幣(明治通宝)の発行を開始した。こうした事情もあって、新紙幣はゲルマン紙幣とかドイツ紙幣と呼ばれた。
 そして政府では、明治通宝札と太政官札・旧藩札との交換を進める一方で、新紙幣を不換紙幣として発行した。太政官札と金貨との交換という政府公約は反故にされたが、それにもかかわらず、地租改正による政府財政基盤の安定化もあって新紙幣への交換は比較的スムーズに進捗し、明治11年になると政府紙幣は明治通宝札に統一された。このように、わが国の場合、近代的貨幣制度への移行に際し、不換紙幣が比較的順調に受け入れられていった。
 明治通宝札は当初、ドイツで印刷された紙幣に日本で「明治通宝」の文言や官印などを補って完成された。しかし、ドイツ製の紙幣は紙質がよくなく、損傷紙幣が多数発生したため、明治10年以降はドイツから原版を取り寄せ、国内ですべての印刷が行われるようになった。もっとも、明治通宝札の場合、額面金額の如何にかかわらず同一のデザインが採用されていたため、低額券を高額券に偽造できるという欠陥が出てきた。このため、明治14年2月以降、防贋対策を施した改造紙幣に改刷された。この政府紙幣はわが国初の人像(神功皇后)入り、かつ唯一の女性肖像入りの紙幣であり、俗に神功皇后札と呼ばれた。神功皇后肖像の原版は紙幣寮の技術者であったイタリア人彫刻家のキヨソネが作成したため、その風貌は外国女性風となっている。
 円単位貨幣の普及とともに江戸時代、明治初期に発行された貨幣は明治7年以降、概ね次のようなかたちで新貨幣に交換されていった。まず古金銀貨は品位等を基準に定められた引替価格で新貨幣に、太政官札など両単位の政府紙幣は金1両=1円で新紙幣にそれぞれ交換された。藩札、府県札は、廃藩置県時の発行高、引替準備高に基づき定められた引替価格で新紙幣および小額貨幣に交換された。寛永通宝など銅製の旧銭貨は、銅貨不足のため、一文銭10枚で1銭などといったかたちで新貨幣単位に読み替えのうえ通用させられた。なお、旧銭貨は昭和28年まで法貨として位置づけられており、九州や東北地方の一部では昭和初期でも小額貨幣として利用されていた。

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