| 第41話 銀目廃止と太政官札
慶応3(1867)年12月、明治天皇は王政復古を宣言し、ここに天皇を中心とする新政府が誕生した。しかし、維新政府が日本全国を政治的に掌握したのは、鳥羽・伏見の戦いに始まり、1年5か月にわたった戊辰戦争が終結した明治2年5月のことであった。それまでの間、維新政府では貨幣制度の整備・統一に着手するまでのゆとりはなかった。このため、慶応4年2月、旧幕府幣制の踏襲が宣言され、当時流通していた幕府貨幣や藩札のほか、それまで通用停止となっていた古金銀貨の通用が認められた一方、維新政府自らも二分金、一分銀など旧幕府貨幣とほぼ同じ形式で両単位の貨幣を発行した。
次いで同年4月、金銀の純分量を基準として各種の幕府金銀貨間の交換比率が公定された。しかし、それはまた、江戸時代に鋳造された金銀貨すべてがそれぞれ異なった価格で流通することを意味していた。通貨体系は幕府金銀貨だけでも非常に複雑なものとなったほか、藩札が濫発されたり、偽造金貨・紙幣が横行するなど、明治初期における通貨の流通はきわめて混乱していた。こうしたなか、維新政府では貨幣制度の統一を狙いとして各種の施策を講じていった。そのような幣制改革の第一歩となったのが、金貨による貨幣単位の統一を目的として慶応4年5月に実施された銀目廃止であった。
銀目廃止は、銀建て取引の廃止および銀建てによる既往貸借契約の金貨単位への書き替えを求めるものであったが、恐慌心理が働いて大坂の金融界をパニックに陥れた。大坂では銀貨が貨幣として卓越した地位を占め、慣行として商品の価値表示に関しては銀目が利用されていたほか、銀目の貸借が巨額にのぼっていたからである。両替商を支払人として発行された銀目手形所持人の多くが、その手形が銀目廃止に伴い無効になると誤解して正貨との交換を求めて殺到したため、大多数の両替商が支払不能、閉店に追い込まれた。こうした動揺のなかで大坂の信用組織は根本的に破壊され、その後、両替商金融とは異なった土壌のうえに近代的銀行制度が形成されることになった。
一方、明治維新政府では、徳川幕府からの財政引き継ぎもなく無一文から出発したこともあって、財政基盤の確立が幣制の統一と並ぶ重要な経済問題となっていた。戊辰戦争に際しては富豪から御用金として調達した300万両を軍用金に充当したが、旧福井藩士三岡八郎の建議に基づき、国庫の窮乏を補填するとともに各藩や民間へ貸し出す殖産興業資金の調達を目的として慶応4年5月、太政官札という不換紙幣を発行した。太政官札の流通価値は、国民の新政府に対する信用不足もあって額面金額を大きく下回り、正金100両に対し太政官札120両というように正貨との交換に際しては打歩が求められた。
これに対し政府では翌2年5月、太政官札の通用期間を13年から5年に短縮するとともに、新たに発行される貨幣(金貨)との交換を約束した布告を発した。金貨による裏付けをえた太政官札は漸次流通性を回復し、その後、中央政府紙幣としてひとまず機能するようになった。太政官札は、その過半を10両札、5両札が占める高額紙幣であったため、小額貨幣不足を補うべく明治2年から3年にかけて2分、1分といった額面からなる民部省札が発行された。
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