◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第40話 開港と金流出

 明和9年(1772)の南鐐二朱銀発行を契機として、銀貨は秤量貨幣から金貨単位の計数貨幣へと変容を遂げ、天保期(1830〜44)には計数銀貨が銀貨流通残高の大部分を占めるようになった。その一方で、天保一分銀4枚が小判1枚に等しいと定められるなど、計数銀貨と金貨との交換については素材価値とは独立した比率が適用された。文政・天保の改鋳においては、この金貨・計数銀貨比率が改鋳差益の獲得を狙いとして銀高方向で大きく修正されたため、天保一分銀の金1両当たりの銀量は9.1匁と南鐐二朱銀(21.1匁)の43%にまで低下した。
 このように18世紀末以降、計数銀貨の発行増大を媒介として銀貨の金貨に対する補助貨幣化が進んだ。その一方で、三貨制の下で銀貨は引き続き金貨と並ぶ基本貨幣としての地位を付与されていたため、本来補助貨幣であるべき計数銀貨も基本貨幣として機能していた。その結果、計数銀貨の普及とともに日本における金銀比価は、当時の国際相場(1対15)を大きく上回る1対6程度にまで上昇した。
 国際相場から大きく乖離した金銀比価は、鎖国による内外金融市場の遮断によって支えられていた。しかし、安政6年(1859)6月の神奈川・長崎・函館の3港開港とともに、そうした金銀比価の内外不均衡が顕現し、大規模な金流出・銀流入が発生した。すなわち、アジア経済圏における貿易決済手段として広く流通していたメキシコ・ドル銀貨(洋銀)を日本に持ち込むと、計数銀貨の金貨価値が国際相場の約3倍過大評価されていたため、リスクなしに多額の利益を得ることができた。そのため、アメリカ、イギリスなどの商人による国境をまたいだ金銀貨の裁定取引が活発に展開されたのであった。
 金貨の大量流出を懸念した徳川幕府では、開港直前の安政6年(1859)5月、量目・品位を高めつつ額面価値を半分に落とした安政二朱銀を新鋳のうえ、海外なみの金銀比価を実現しようとした。しかし、諸外国からの強い反発にあい、この政策はまもなく中止に追い込まれ、相当な金額の金貨が海外へと流出していった。これに対し徳川幕府では安政7年2月、天保・安政小判の対銀貨通用価値を約3倍に引き上げる「直増(ちょくぞう)通用令」を発出した。そして、万延元年(1860)4月には1両当たりの金量を約3分の1に引き下げる金貨の悪鋳を断行した。この結果、国内の金銀比価はほぼ海外なみとなり、金貨の海外流出に歯止めがかかった。金貨の海外流出に関しては種々の推計が提示されているが、最近では合計50万両程度、当時における金貨流通高の約2%、もしくは金銀流通高の1%程度の金貨が1年のうちに流出したという見方が一般的となりつつある。
 この金流出は貨幣流通高の減少を媒介として日本経済にデフレ効果をもたらすはずであった。しかし、実際には物価が急騰した。純金量が3分の1に引き下げられた万延金貨が大量に鋳造されるとともに旧貨と増分交換(旧貨に約2倍のプレミアムを付ける)されたため、国内的には金貨の流通量が著増したからである。金貨流出の抑制あるいは金銀比価の国際均衡の回復を目的として実施された万延の改鋳の結果、日本経済はインフレの海を漂うことになり、そうしたなかで明治維新を迎えたのであった。

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