◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第39話 江戸時代後期の改鋳

 前回まで8回にわたって江戸時代における紙幣や金融の発展について述べたが、再び目を金銀貨に振り向けることにしよう。
 かつて指摘したように、元文元年(1736)に経済リフレ策として実施された元文の改鋳は期待どおりに一般物価や米価の急騰をもたらすとともに、石高制の下で年貢米の売却収入に頼っていた徳川幕府および大名の財政を大きく好転させた。しかし、この効果もそう長くは続かなかった。一般物価、米価とも5年後の寛保元年(1741)にピークに達した後、下落に転じ、宝暦3年(1753)には元文改鋳以前の水準にまで低下したのであった。この事実は、貨幣改鋳に伴う貨幣供給量の拡大が貨幣需要の増大にほぼ見合ったものであったため、長期的には物価の上昇が生じなかったことを意味している。
 そして、18世紀後半以降みられた物価の下落は再び幕府財政を圧迫する一因となり、その財政危機は時間を経るにつれ深刻化していった。このような局面の打開を目指して徳川幕府では、文政・天保期(1818〜44)、2度にわたって貨幣の改鋳という打ち出の小槌を振ったのであった。すなわち、これらの改鋳は、元文の改鋳とは異なり、純粋に改鋳差益(出目)の獲得を狙いとしたものであり、その意味で金融政策というよりも財政政策としての側面がはるかに強かった。
 文政元年から3年(1818〜20)にかけて実施された文政の改鋳により、金銀貨の品位・量目はいずれも引き下げられたが、とりわけ二朱銀・一朱銀という計数銀貨の量目引き下げが著しかった。すなわち、二朱銀の場合、量目が2匁7分から2匁へと26%減じられたほか、一朱銀の場合は、7分と二朱銀の半分以下の量目に抑えられたのであった。これに対し、小判の改鋳は品位を66%から56%に引き下げるにとどまった。小判は金銀の合金であり、それ以上銀の含有量を増やすと耐久性が急速に低下し、流通過程でひび割れてしまうおそれがあったからである。その一方で、金貨での出目獲得を目的として、一朱金という小額金貨が初めて発行された。もっとも、一朱金は品位12%、ほとんど銀貨に近い金貨であったため、世評はきわめて悪かった。
 この文政の改鋳の結果、幕府は550万両を超える改鋳差益を手にし、幕府財政は大きく改善した。しかし、1830年代に発生した天保の飢饉は、幕府財政を再び危機的状況に陥れた。こうした事態に対処すべく、天保8年(1837)に金銀貨の全面改鋳が実施された。天保の改鋳は、文政の改鋳で濫造された小額金銀貨の整理・統合をも狙いとしており、二朱銀、一朱金、二分判、一朱銀が廃止され、小額貨幣は一分判、一分銀および二朱金の3種類に単純化された。そして、金銀貨の改鋳は丁銀や一分銀を中心に行われ、例えば天保一分銀の銀量は文政二朱銀との比較で約4割方引き下げられた。
 以上のように文政・天保期においては、財政補填を目的として計数銀貨を中心に改鋳が実施されていった。一方、計数銀貨の価値は一分銀4枚で1両というように素材価値とは独立して定められたため、計数銀貨ベースの金銀比価は逆に当時の国際相場(1対15)を大きく上回る1対6程度にまで上昇し、開港に伴う金流出の素地がここに形成されたのであった。

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