| 第38話 大名貸と米切手金融
前回述べたように、諸藩では江戸時代、商都大坂の中之島や堂島近辺に設けた蔵屋敷を通じて年貢米のほか大豆などの特産物を売却する一方で、武具や高級衣料品といった領国では調達しえない物品の購入や不足資金の借り入れを行っていた。そして、蔵屋敷では、これらの業務を事務処理に長けた商人に委託するのが一般的となっていた。こうした商人のうち産物の搬入・販売・保管・搬出事務担当は蔵元、売上代金の回収・為替の取り組みといった金融の担当は掛屋とそれぞれ呼ばれた。
この掛屋には大手両替商が指名された。彼らは、諸藩の大坂蔵屋敷の金庫番として、その指図に基づき米や特産物の売却代金を国元あるいは江戸あてに送金していた。しかし、大名の資金繰りの実際はそう単純ではなかった。大名財政の場合、諸費用の支払いが毎月ほぼ決まった金額で出ていくのに対し、年貢米等の売上収入は毎年秋から冬に集中するなど、収入と支出のズレがどうして避けられなかったのである。ここに大名貸という領国大名向けの融資が広範化する素地があり、大名財政における季節的な収支不足調整のためのつなぎ資金を供与するのが実は掛屋の重要な仕事だったのである。これが本来の意味での大名貸であり、年貢米や特産物売却代金を引き当てとして実行されていた。
大名貸は年貢米を担保とした前貸信用的な性格をもっていたほか、利息も年10%を上回るなど、安全かつ有利な資産運用であった。そのため、天王寺屋五兵衛、鴻池善右衛門などの大手両替商が17世紀後半以降、積極的に貸し進んでいった。しかし、世の中はそんなに甘くはなかった。18世紀後半になると大名財政の窮乏化とともに返済が滞り、その後、大名貸の不良債権化が大きく進んだのである。これに対し、掛屋となった両替商では融資姿勢を慎重化させ、親密先であっても延滞が発生した諸藩に対しては新規融資を見合わせたりした。さらに融資の実行に際しても、現在の協調融資に相当する「加入貸し」を採用のうえ貸倒リスクの分散に努めたり、幕府公金貸付、寺社名目貸付など幕府や寺社を名目上の貸し手とし、その権威に基づき債権取り立ての容易化を図ろうとする一種の迂回融資がみられるようになった。
大名貸は両替商のほか、堂島米市場関係者も行っていた。単なる借金の担保として米切手が発行されたのであった。この大名貸は「浜方の大名貸」と呼ばれた。担保となった米切手は貸し手が抱え、堂島米会所で取引されることはなかった。そして江戸時代後期になると、両替商の融資態度が慎重化する一方で大名財政が一段と逼迫化してきたため、米の裏付けがないにもかかわらずあるかの如く装った「過米切手」「空
切手」が発行されるようになった。
このようにして米切手は藩債証券としての性格を強めたが、切手発行から現物米の蔵出しまでには数か月を要したため、発行時にいずれが過米切手であるかは当事者以外誰も識別できなかった。そうしたなかで文化11年(1814)、筑後・肥前両藩による空米切手発行が発覚し、米切手の信用力が低下するとともに大坂市場の地位も少なからず悪影響を受けた。こうした借り手としての大名の行動は、現代にも一脈通じるものがあるといえるのではないか。
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