◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第37話 米切手と堂島米市場 

 「天下の台所」大坂は秀吉により築かれたと考える向きが多いが、これは正しくない。江戸時代における大坂の繁栄は、大坂夏の陣(慶長20年(1615))での豊臣勢の敗退により意気消沈していた大坂の活性化を狙いとして2代将軍秀忠が実施した経済振興策の結果なのである。当時における商業の中心地であった堺の場合、地形的にそれ以上の発展が見込まれなかった。
 そのため、葦が茂っていた船場以西の湿地帯を埋め立てて造成した地に堺、平野郷や京都伏見の有力商人が集められ、それを契機として商都大坂が発展したのであった。
 そして、大坂といえば米、米といえば堂島というように、大坂は全国最大の米の集散地、取引市場として確固たる地位を築き、元禄期(1688〜1704)以降は年平均150万石にものぼる米が諸藩から廻送されていた。この諸藩が大阪に廻送した年貢米は、各藩の蔵屋敷が指定した米仲買という米の卸売商人による競争入札を媒介として販売された。
 大坂では17世紀なかごろから米市という米の卸業者間市場が北浜の淀屋門前などで開かれていたが、元禄元年(1688)以降は淀屋市が堂島に移り、これを契機に堂島米市場が発展することになった。堂島米市場で実際に売買されていたのは、落札された米の倉荷証券である「米切手」であった。米仲買相互間での米の売買に際し、その都度、現物米を受け渡すのでは取引コストが嵩むため、現物の代わりに1枚10石単位の米切手という倉荷証券が授受されていた。そして、現物を必要とする商人が、最後に蔵屋敷に出向いて米切手との交換で米を受け取っていたのである。
 このように米切手は落札された米の保管証として登場し、発行後30日以内に米の蔵出しを行うことが義務づけられていた。しかし、米仲買の間で米切手の売買が活発化するなかで、その性格も漸次変容を遂げ、17世紀末になると、単に一定量の米に対する請求権を表した商品切手となった。米切手が有価証券的性格を強めるなかで、いわゆる着地取引として米の廻着を待たずに米切手が先売りされるようになった。出来秋とともに諸藩からの年貢米廻着が集中する秋冬よりも、端境期である夏あるいは初秋に米を売りさばくことが出来れば、その分だけ値鞘が稼げるからである。
 こうした米の着地取引の活発化は諸藩における年貢米収入の安定化につながったが、その一方で、米切手の保有商人は米の価格変動リスクを負担することになった。この米価変動リスクのヘッジを目的として、享保期(1716〜36)のはじめに「売買つなぎ商い」という先物取引が備前屋権兵衛と柴屋長左衛門により考案された。この「つなぎ商い」は享保15年(1730)、徳川幕府により公認され、ここに堂島米会所が成立することになった。堂島米会所では、米切手を売買する「正米(しょうまい)商い」と米の先物取引である「帳合(ちょうあい)米商い」が行われていた。このうち帳合米商いは、投機やヘッジを行おうとする商人にとっては格好の市場であったため、その後、大きく発展した。堂島米会所は、世界で最も早く成立した先物取引制度を備えた商品取引所であり、大坂商人の才覚を端的に示すものということができる。

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