◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第34話 両替商の発展

 江戸時代においては、かつて説明したように金銀銭貨という3種類の貨幣が支払手段として利用されていた。とりわけ、「東国の金遣い、西国の銀遣い」と称されるように、地域ごとに金銀貨の流通範囲が異なっていたほか、金銀貨という高額貨幣と小額貨幣である銭貨との価値の乖離が著しかったため、3貨間の交換業務が必要欠くべからざるものとなっていた。この金銀銭貨の交換や鑑定を業として行っていた商人を一般に両替商という。ちなみに、両替商の「両替」という名称は「『両』(金貨)を他の貨幣に『替える』」ことに由来する。
 このように江戸時代の両替商は、金銀銭貨の交換ニーズを背景として登場したが、その後、彼らの業務内容は大きく広がり、商人や大名などを主たる取引相手として預金の受け入れ、手形の発行・決済、金銭の貸し付け、為替の取り組み・決済など各種の金融業務を広く営むようになった。とりわけ、大手の両替商は大名貸と呼ばれる領国大名向けの貸出を多数行い、大名財政を資金面から支えていた。その意味で、両替商は、金銭の貸付、遠隔地間の為替の取り扱いに特化した土倉、問丸という中世の金融業者とは大きく異なっており、17世紀イギリスの金匠(ゴールドスミス)銀行に匹敵する初期的銀行の域に到達していたとされることが多い。
 江戸時代の両替商は、三井両替店、鴻池善右衛門といった最も有力な豪商から一般庶民を相手に両替業務を営む零細経営の銭屋に至るまで、資産規模や業務内容の面で多種多様な業者から構成されていた。これら両替商のなかでも、江戸時代における信用制度を担っていたのは「本両替」と呼ばれる両替商である。本両替は財力に富んだ有力商人が営むべき業務と観念されており、天保期(1830〜44)の大坂にあって、鴻池善右衛門など大手両替商の純資産は銀27千貫(金40万両)を上回っていた。
 両替屋の起源は必ずしも明らかではないが、大坂の商人、天王寺屋五兵衛が始めた金銭の売買に始まるとされている。そして、天王寺屋は寛永5年(1628)から故知にしたがって預金の受け入れおよび手形の取り扱いを開始し、両替商の基礎を築いた。その後、両替商は大坂における商業取引の発展とともに成長を遂げ、寛文期(1661〜73)に至ってほぼ完成をみた。もっとも、彼らは当初は両替屋という名称を名乗ってはおらず、史料上は寛文2年(1662)の大坂町奉行・石丸定次による両替屋仲間取り決め締結命令において初めて両替屋という言葉が登場する。
 この株仲間形成とともに両替屋は幕府公認の業種となり、幕府による取り締まりの下で金融面から大坂における商業の発展を支えた。そして大坂の両替商は、「十人両替」という最大手の両替商が幕命にしたがって傘下の本両替を統 制・監督するという組織構造を有していた。このヒエラルキーは両替商間の業務においても厳格に遵守され、両替商間の取引は同格の両替商を相手方とする取引に限られており、上下関係にある両替商同士が対等の立場に立って相対で取引を行うことは絶えてなかった。家格の異なる両替商との取引はすべて、親両替と称される系列のなかでひとつ上に位置する両替商を経由して行われていた。

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