| 第33話 藩札の登場
テレビや映画の時代劇では江戸時代、武士や町人は金・銀貨や寛永通宝を支払手段として広く利用していたように描かれているが、これは必ずしも正しくない。確かに、江戸、大坂、京都といった徳川幕府の直轄地においては金・銀貨が支払手段として広く流通していた。しかし、それ以外の地域においては、藩札という藩政府が発行した地域的な通貨が一般交換手段として広く利用されていたのである。明治4年(1871)に東京府知事となった旧福井藩士、由利公正が懐旧談において「安政5年(1858)、30才の時に藩命で江戸に出府するに際し、はじめて手当として一分金を受け取り、金貨を実に珍しいものと思った」と述べているように、全国の諸藩においては、むしろ藩札が支払手段として広く利用されていた。江戸時代、地方の大名領国においては、金・銀遣いよりも札遣いのほうが一般的であったということができる。
ちなみに明治4年の廃藩置県時には244藩・14代官所・9旗本領、全国諸藩の約8割が藩札を発行しており、このことは地方貨幣としての藩札の重要性を端的に示している。藩札の普及はまた、大量の金銀貨が海外へと流出した一方で領国経済の発展とともに貨幣需要が増大するなど、幕府貨幣に関する需給バランスが崩れた結果、地方領国においては通貨不足が大きな経済問題として浮上し、徳川幕府としても藩札発行を容認せざるをえなかったという事情を背景としていた。
現在までのところ、現物により確認しうる最古の藩札は寛文元年(1661)に越前国福井藩で発行された福井藩札である。しかし、文献的には寛永7年(1630)の備後福山藩による藩札発行が確認されているほか、寛永14年(1637)という年号の入った摂津国尼崎藩札の版木が発見されている。これらの事実は近畿地方等では通説よりも約30年早い段階から藩札が発行されていた可能性を示唆している。仮にそうだとすると、藩札と畿内古紙幣との連関性がより明確になり、私札から藩札へと発展していったということができる。
藩札の発行に際し各藩では、隣接する藩あるいは親密藩の事例を参考にしつつ、詳細な通用仕法を制定のうえ領民に公示していた。このため、各藩の藩札運用規則はきわめて類似しており、藩札発行にかかわる基本的なルールは概ね次のような条項からなっていた(1)領内における正貨の流通禁止(ただし、例えば銀2分以下の小額取引を除く)(2)個人間の正貨・藩札引替取引の禁止(3)藩札から正貨への引き替えは、藩外支払目的を除き禁止する(4)藩士への禄、給料(現金支給分)等はすべて藩札で支給する(5)年貢等藩政府への支払いは藩札で行う。
藩札の流通実態は、各藩のおかれていたその時々の経済環境や藩当局の財政運営態度の相違などを背景として藩ごとに大きく異なっていた。十分な兌換準備の確保、有力な商人の信用の利用などにより、藩札に対する領民からの信認が高かった藩では、藩札は円滑に流通していた。一方、藩札が濫発された藩では、藩札価値の急落や札騒動という一種の取り付けが発生した。その意味で、節度ある藩財政運営が円滑な藩札流通の基礎を形成していたということができる。
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