◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第32話 私札の発展

 前回述べた山田羽書の流通に触発されるかたちで伊勢山田周辺の宇治、射和(いさわ)、松坂、丹生(にう)などにおいても、当地の有力商人が発行した私札が支払手段として流通していた。こうした私札はやがて、大和下市、堺、摂津平野郷といった当時における商業の中心地においても発行されるようになった。これらの初期私札は、その発行・流通地域が伊勢国、大和国、摂津国など近畿地方に集中していたことにちなんで「畿内古紙幣」とも呼ばれる。
 畿内古紙幣のうち最も代表的なのが山田羽書であり、山田羽書は当初、小額貨幣不足への対応措置として山田御師により個別に発行されていた。その後、発行体制が漸次整備され、元和期(1615〜24)ごろまでに羽書の形態・様式・発行方法も整ったようである。そして、寛永8年(1631)ごろからは三方会合所という自治的行政組織を通じて発行される一方、徳川幕府は山田奉行を媒介として羽書の発行を監視するようになった。そうした幕府による監視体制の下で山田羽書は、江戸時代を通じて間断なく発行され続けた。一方、その他の伊勢系統私札は、幕府貨幣の浸透に伴う良質貨幣に対する需給の緩和や徳川幕府による私札発行に対する取り締まりの強化に軌を一にするかたちで17世紀後半にはほとんど姿を消した。
 大和系統私札としては、大和下市で発行された下市銀札が有名である。下市は中世以来の交易の中心地であり、銭貨の持ち運びに付随する不便を解消するための手段として、同地の富豪が銀目を紙に記載のうえ「切手」と称して発行したのが下市銀札の始まりとされる。その後、数名の富豪が連名で切手を発行するようになり(これを組合札という)、寛永13年(1636)には幕府から切手発行にかかわる公許をえた。この徳川幕府の公許とともに組合札は御免銀札と呼ばれるようになるとともに、十分な発行準備に支えられ、幕末までの間流通していた。
 一方、摂津・河内・和泉国でも種々の私札が発行されていた。元和元年(1615)には、豊臣氏滅亡後の大坂区画整理事業の一環として実施された江戸堀河の開削工事における人足費用の支払手段として、桔梗屋伍郎左衛門および紀伊國屋藤左衛門の連帯責任で大坂江戸堀河銀札が発行された。また、堺東郊の百舌鳥(もず)村での新田開発に際し、堺の富豪筒井庄右衛門(木地屋)により夕雲開(せきうんびらき)銀札が食糧費用や労賃の支払手段として発行された。このほか、当時の近畿地方において京都、伏見と並ぶ商業の中心地であった摂津国平野郷でも元和から正保期(1615〜48)にかけて、市郎兵衛札など有力商人による私札の発行が相次いだ。
 以上要約すると、初期私札は富豪と称される地域の有力商人により発行され、その一般受容性や正貨との兌換性は彼らの卓越した信用力により支えられていた。もっとも、これらの私札がどれだけの人々により交換手段として利用されていたのかという点に関しては必ずしも明らかになっていない。当時の商業取引の発展度合いを考慮すると、むしろ有力商人を中心とした商業ネットワーク内部の関係者あるいはその周辺において限定的に流通していたというのが実情ではなかろうか。

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