◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第31話 山田羽書の誕生

 前回までは十数回にわたって、わが国における鋳貨の歴史を述べてきたが、これからしばらくの間、江戸時代における紙幣や金融業の発展 について説明しよう。
 紙幣あるいは銀行券といえば、一般に17世紀中葉のイギリスにおいて発行された金匠手形(ゴールドスミスノート)が最も古いと認識されている。しかし、これは誤った捉え方といわざるをえない。世界で最古の紙幣は、10世紀央に中国四川省で発行された「交子(こうし)」という鉄銭の預り証である。わが国においても室町時代末期から江戸時代初期にかけて約60年の間、有力商人が単独もしくは共同で、時には領主権力からの承認を得て発行した「私札」と呼ばれる紙幣が地域的な交換手段として流通していた。その意味で、信じられないかもしれないが、日本は紙幣の発行に関し世界第2位の古い歴史をもっているということができる。
 こうした私札発行の先駆けとなったのが、1600年ごろに伊勢神宮(外宮)の所在地である伊勢国山田地方で発行された山田羽書(はがき)という紙幣であった。山田羽書は御師(おし)と呼ばれる伊勢神宮に仕える有力商人により、その高い信用力と宗教的権威を背景に発行された紙幣であり、額面金額も銀1匁以下の小額となっていた。一方、羽書という言葉の字義に関しては現在、もともと小額紙幣を意味していた端書に代わって、鳥の羽のように市場を転々流通するという態様を表すべく「羽書」という文字が当てられるようになったと一般に理解されている。
 中世の日本においても、かつて説明したように、割符(さいふ)といった手形類が信用取引手段として利用されていた。この中世の手形類と山田羽書とは一体、どういった点で異なるのだろうか。中世の手形類の場合、年貢の納入など特定の当事者間での特定目的の遂行のために利用されたことから、半紙に貨幣価値の受け渡しを記載した一般文書の域にとどまり、それが貨幣価値の移転手段であることはその文言を読んで初めて認識された。これに対し、山田羽書といった初期私札の場合、そもそも不特定多数の人々による交換手段としての利用を想定のうえ設計されたという導入の経緯もあって、一見しただけで貨幣であるという認識がえられるよう工夫されていた。
 実際、山田羽書の形態は、神札を模倣のうえ取り扱いおよび持ち運びの容易な短冊形に統一されていた。加えて、表の頭部には「福の神」である大黒天を、下部には発行者の氏名をそれぞれ印刷するなど、文様が統一されていただけでなく、額面金額についても銀1匁、銀5分(ふん)というように定額化が図られていた。このように山田羽書は、不特定多数の人々によりそれが交換手段であることを容易に認証しうるように形態面での定型化、金額面での定額化というイノベーションを伴って登場した。そして、これが山田羽書の交換手段としての流通力を形態面から支えた。ここに、山田羽書のわが国貨幣史における歴史的意義があということができる。

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