◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
BACKWARD feature FORWARD
戻る 散歩道目次 進む

貨幣の散歩道

第30話 両替商の信用と包み金銀

 小判、丁銀といった金銀貨を大口の決済手段として利用する場合、真贋の鑑定のほか、枚数あるいは量目(重さ)の確認が必要となる。これは、手間暇のかかる厄介な作業であるほか、真贋の鑑定や量目の測定に際しては別途手数料を負担しなければならない。そうした手数や費用負担を減らすため、一定金額の金貨もしくは一定重量の銀貨を和紙でひとまとめに包んで封をしたものが、大口決済手段として利用されていた。これを包み金銀という。時代劇では悪徳商人が幕府の役人などに、白い小判の固まりを賄賂として渡す場面がみられる。あの白い固まりが包み金であり、実際には紙で包まれていた。
 現代においても、日本銀行あるいは金融機関による封印の押された銀行券の束が決済に利用されることがある。しかし、その場合は、受け取り人が封を切って枚数を確認するのが一般的となっている。これに対し、包み金銀の場合、有力両替商など高い信用力を有する者が封をしていたため、そのまま開封されることなく市中を転々流通していた。銀貨の場合は五百匁包みなどが、また金貨は小判五十両包みが一般的であった。
 包み金銀が高い信用力をもっていたことは、近松門左衛門の浄瑠璃「冥土の飛脚」で封印切りが最大の見せ場となっていることからも窺われる。遊女梅川に入れ揚げた大坂の金飛脚、亀屋忠兵衛は、顧客から預かった包み金三百両の包みを破って身請け資金に充てたことが発覚して死罪となったものだ。もっとも、これは封印切りが死罪であることを意味しない。忠兵衛が死罪になったのは顧客の金を横領したからであり、正当な受領者が封を破ることには何ら問題はない。ただし、額面どおりの金銀が入っていない場合の損失は開封者が負担することになっていたため、開封は通常、両替商の店頭で行われた。
 包み金銀の利用は17世紀前半、大黒常是が幕府に銀貨を上納するとき、銀貨を紙に包んだことに始まるとされている。金銀貨包みの封印は当初、金座の御金改役(おんきんあらためやく)であった後藤家や、秤量銀貨の鋳造・鑑定に携わっていた大黒屋(初代・湯浅作兵衛常是)により行われていた。これにちなんで、包み金は後藤包み、包み銀は常是包みとそれぞれ称された。そして17世紀末になると、民間部門において大口決済ニーズが高まるなかで、資力・信用力に富む大手両替商が包み金銀を調整するようになった。これを両替屋包みという。
 両替屋包みの場合、包みの形態や封印主体は時代とともに変わっていった。例えば、銀貨については明和9年(1772)に南鐐二朱銀という金貨単位の計数銀貨が発行されたのに伴い、重量を基準とした包み銀に加え、金額基準で調整された包み銀も利用されるようになった。これらは銀座で封印されたことにちなんで、銀座包みと呼ばれる。その後、計数銀貨の発行増大とともに銀座包みは増加したが、その一方で、秤量銀貨を包んだ常是包みは漸減していった。
 また、幕末期になると、金一両・銀数匁以下の小口の包み金銀(端=はした=包み)も調整された。明治維新後も、包み金銀は引き続き利用されたが、明治4年(1871)に公布された新貨条例に基づく円・銭単位の新貨幣の流通進展とともに包み金銀の流通量は急速に減少し、明治7年までにほぼその姿を消した。

TOP


copyright