| 第29話 明和南鐐二朱銀の発行
前回述べたように、明和2年(1765)に定量
銀貨として発行された明和五匁銀は市場におい
てほとんど受け入れられず、幕府による銀貨の
計数貨幣化計画は瞬く間に水泡に帰した。五匁
銀の発行が失敗した原因は、それを市場実勢と
かけ離れた公定相場で通用させようとしたと
ころにあった。したがって、銀貨の計数貨幣化
を円滑かつ成功裡に進めるためには、三貨制の
下では避けられない金銀の市場比価での交換と
いう制約から解放された計数銀貨を発行できる
仕組みを考案しなければならなかった。
この問題を解決する手段として編み出された
のが、その後、明和9年(1772)に発行された
明和南鐐二朱銀という金貨単位で通用価値が示
された計数銀貨である。南鐐二朱銀の場合、銀
貨であるにもかかわらず、その通用価値は当初
より金2朱(8分の1両)と定められていたと
ころに特徴があった。こうした工夫の導入によ
り、金銀比価の変動から独立した計数銀貨の発
行が初めて可能となったのである。また、この
計数銀貨には、五匁銀(品位46%)との違いを強
調するため、「舶来の特別の良質銀」を意味す
る南鐐という言葉が冠せられた。事実、この二
朱銀の品位は98%ときわめて高く、純銀といっ
て差し支えなかった。
もっとも、南鐐二朱銀を丁銀という秤量銀貨
に代わる銀貨として大坂などの銀遣い圏で通用
させるためには、それが丁銀と実質的に変わり
ないものであることを理論的に説明する必要が
あった。南鐐二朱銀1枚の量目は2.7匁であり、
これを純銀とみなして小判1両当たりの銀量を
求めると21.6匁となる。一方、当時流通してい
た元文丁銀25匁は純銀10匁に等置されていた。
したがって、南鐐二朱銀の丁銀換算価値は54匁
となり、公定相場の60匁を1割程度下回ること
になる。この乖離の正当化に利用されたのが、
江戸町奉行の大岡忠相が示した金銀裁定相場で
あった。彼は、享保3年(1718)の銀貨暴騰時
に金1両=銀54匁ないし55匁という裁定相場を
提示しており、これを根拠として幕府では南鐐
二朱銀と元文丁銀との等価性を主張したのであ
った。
南鐐二朱銀の発行を媒介とした金貨体系によ
る幣制の統一は、徳川家康以来の悲願ともいえ
る。しかし、それはまた、金銀相場の固定化を
意味したため、相場変動を収益基盤としていた
両替商からは、五匁銀の場合と同様に強い抵抗
運動が起こされた。彼らは、例えば南鐐二朱銀
を秤量銀貨とみなして小判との引替相場を建て
るといったかたちで抵抗したのであった。こう
した事情もあって、南鐐二朱銀は発行当初、流
通状況は必ずしも満足のいくものではなかった。
これに対し幕府では、五匁銀発行失敗の経験を
踏まえ、両替商に対し南鐐二朱銀を無利子・無
担保・3年賦で貸し出すなど、各種の流通促進
策を講じた。その結果、南鐐二朱銀の利用は徐
々に浸透していった。
このように南鐐二朱銀の発行は、「金貨本位
制」の確立に向けた、わが国貨幣金融史上きわ
めて重要なイノベーションであり、これを契機
として銀貨の金貨に対する補助貨幣化が本格化
し、その後幕末までに7種類の計数銀貨が発行
された。また、計数銀貨の鋳造に際しては大量
の丁銀が鋳潰されたため、1830年代になると銀
貨の約9割を計数銀貨が占めるようになった。
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