| 第28話 計数銀貨発行に向けての動き
徳川家康が天下の覇者として幣制の統一に着
手したとき、大坂を中心とする西日本地域にお
いては、銀遣いと称されるように銀が交換手段
としての地位を既に確立していた。このため、
幕府としても、幣制の統一に際しては銀遣いと
いう慣行を容認のうえ秤量銀貨を供給せざるを
えなかった。その後、大坂が「天下の台所」と
いう経済上卓越した地位を確保したこともあっ
て、大坂を江戸と同じ金遣いに変更させること
は幕府にとっても容易ならざる仕業であった。
しかし、18世紀後半以降、江戸では地廻り経
済圏とよばれる周辺地域での各種商品生産力の
向上とともに、消費財供給に占める大坂への依
存度が低下していった。それはまた、大坂の経
済力の傾向的下落を意味していたため、徳川幕
府が大坂における交換手段である秤量銀貨を供
給しなければならない事由は徐々になくなって
いった。加えて、幕府による大坂での年貢米売
却代銀などの江戸への送金手段が寛保2年(17
42)に為替から現送へと切かえられた結果、江
戸城の御金蔵には大量の秤量銀貨が蓄積される
ようになった。
このように銀貨を取り巻く環境が変化するな
かで明和2年(1765)、幕府は明和五匁銀とい
う新種銀貨の発行に踏み切った。この銀貨は、
その名称が端的に示すように、重量がまちまち
な丁銀とは異なり、1枚の重さが5匁に統一さ
れたところに特徴がある。もっとも、その通用
価値は引き続き5匁という銀の重さで裏付けら
れているという意味で、秤量貨幣と計数貨幣と
の中間的な性格をもった貨幣ということができ
る。このことにちなんで、明和5匁銀は定量貨
幣と呼ばれることが多い。
それでは、なぜ幕府が定量銀貨の発行に踏み
切ったのであろうか。第1に、貨幣経済の発展
とともに、資金決済に伴う費用削減のため、銀
貨についても小額の計数貨幣の導入が必要とさ
れたからである。第2に、金貨による幣制統一
のためのワンステップとして、銀貨の定量化が
必要であったことが挙げられる。銀貨の定量化
が進んだ後、銀貨と金貨との価値関係を固定化
すれば、銀貨は金貨単位の貨幣となり、事実上
幣制の統一が図られることになるからである。
このように利便性の高い小額銀貨として明和
五匁銀は老中田沼意次により発行されたが、そ
の意図とは裏腹に、市中においては貨幣として
なかなか受け入れられなかった。大手両替商か
らの協力が十分えられなかったためである。と
うのも、五匁銀という金銀貨の換算率が固定さ
れた定量銀貨の発行拡大が、金銀相場の変動を
収益源としていた両替商の経営基盤を大きく揺
るがしかねないと懸念されたからである。
明和4年(1767)の幕府による五匁銀の金貨
建て化宣言は、その流通不振にさらに拍車をか
けた。幕府は突如として五匁銀は、金銀相場の
如何にかかわらず、公定相場(金1両=銀60
匁)により金貨と交換できると宣言したが、当
時の金銀相場は金1両=銀60〜65匁と公定相
場よりも銀安となっていたため、一般庶民から
その使用が忌避されたのである。このような事
情により流通不振をきわめた五匁銀は、通用停
止の触れが出されることなく回収され、まもな
く流通界から姿を消すに至った。
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