| 第26話 人参代往古銀
人参代往古銀(にんじんだいおうこぎん)。
多分、この言葉を聞くのは初めてという人がほとんではなかろうか。これは、18世紀前半、朝鮮との間での貿易決済手段として特別に鋳造された高品位の銀貨のことをいう。往古銀とは、当時国内で流通していた元禄・宝永丁銀よりも良質で、慶長丁銀に相当する高品質の銀貨を指す。そのうえに人参という言葉が冠せられているのは、国内流通銀貨よりも品位の高い銀貨を朝鮮貿易のため特鋳する理由として、高級薬剤であった朝鮮人参の輸入が挙げられていたことにちなむ。なぜ、そういった貿易専用銀貨が鋳造されるに至ったのだろうか。
江戸時代、日本が正式な外交関係を締結していたのは、朝鮮と琉球の2か国であった。一方、重要な貿易相手国である中国、オランダとの関係は私的な通商関係にとどまり、外交関係は結ばれていなかった。このうち、朝鮮との交易は対馬藩が担当し、朝鮮からは中国産生糸、人参などが輸入された。寛文8年(1668)の銀輸出禁止によって長崎経由の生糸輸入ルートが閉鎖された結果、良質の中国産生糸の輸入は対馬藩ルートに一本化された。
このような生糸輸入の交易品として、慶長6年(1601)から宝永5年(1708)までの107年間に、慶長丁銀110万貫という莫大な量の銀貨が海外に流出した。その一方で、国内での銀産出量が激減したため、徳川幕府では、元禄・宝永期にかけて金銀貨の品位(純度)や量目(重さ)を落とす改鋳を実施した。とりわけ銀貨に関しては、宝永期(1704〜11)に4度にわたって品位が引き下げられ、最も劣悪な四ツ宝丁銀の場合、品位は20%にまで低下した。
徳川幕府では、対馬藩経由の朝鮮貿易にも品位の引き下げられた丁銀を引き続き利用した。しかし、度重なる改鋳により品位が50%を割り込むと、国際商品としての通用性を欠くとして朝鮮から丁銀の受け取りを拒否された。こうした事態の打開を狙いとして、幕府
では宝永7年(1710)、朝鮮人参輸入のためという名目で人参代往古銀と称される朝鮮貿易専用の良質銀貨(品位80%)を鋳造したのであった。
人参代往古銀は、京都の銀座で鋳造された後、対馬藩京都屋敷に引き渡され、そのまま対馬に輸送された。このため、日本国内ではほとんど現存しておらず、日本銀行金融研究所貨幣博物館でも1個しか保有していない。ちなみに、この銀貨の形状は、宝永丁銀とほとんど変わらず、永や宝の刻印がないといった点が異なるだけである。
貿易専用銀貨の鋳造は、内外の銀価格を異にする価格差別政策の採用を意味する。当時は幕府が金銀を一元的に管理し、鎖国という内外遮断措置が採られていたため、そうした政策の実行が可能となっていた。人参代往古銀は約5年間鋳造されたが、正徳4年(1714)の改鋳により銀貨の品位が引き上げられるに及んで鋳造停止となった。その後、元文元年(1736)の改鋳により銀貨の品位が引き下げられたのを契機として再び鋳造されたが、生糸や朝鮮人参など主要輸入物資の国内自給体制が確立した18世紀後半に至り、人参代往古銀はその役割を終え、鋳造停止となった。
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