| 第25話 正徳・享保の改鋳
前回述べた元禄・宝永の改鋳は、勘定奉行・荻原重秀により企画・実施された。荻原重秀は、貨幣価値は金銀などの素材価値により裏付けられていなければならないとする金属主義が支配的な社会にあって、名目主義の立場から「幕府が信用を与えさえすれば貨幣は瓦でも石でもいい」とまで極論した。この考え方は、当時としてはきわめて斬新な発想であった。その後、正徳の改鋳で金銀貨の品位を慶長金銀貨並みに戻した新井白石により激しく弾劾されたことからも明らかなように、彼の考え方は一般には受け入れられなかった。
また、宝永の改鋳により品位の異なる4種類の銀貨が発行され、銀建ての価格体系が複雑となった結果、銀貨の価値が低下するとともに物価が大きく上昇した。そうしたなかで綱吉の死去により家宣が6代将軍になると、綱吉時代の奢侈な財政金融政策が見直されるようになった。将軍家宣は、事態の立て直しのためには金銀貨の質を高め、貨幣量を減少させるべきという儒学者・新井白石からの建議を受け、金銀貨の品位・量目の引き上げを決定した。そして、正徳4年(1714)、金貨の品位を慶長金貨(84〜87%)にまで引き上げる改鋳が行われ、元禄・宝永小判二両に相当する品位84%の正徳小判(武蔵小判)が発行された。しかし、世間では、正徳小判の品位は慶長小判のそれを下回るという風評が立った。これに対し、徳川幕府では翌正徳5年、威信維持のため、品位を若干高める改鋳を行い、名実ともに後期慶長小判と同品位の享保小判(品位87%)を発行した。正徳末期に発行されたにもかかわらず、享保小判と呼ばれるのは、実際の鋳造・発行期間がほとんど享保年間であったことにちなむ。
正徳・享保期は、元禄文化に象徴される華美・贅沢な風潮が見直された時期でもあり、幕府も冗費節約などを通じて厳しい緊縮財政を堅持した。この結果、幕府による財政支出や武士層の消費が大きく減退し、金銀貨の流通量減少と相まって、経済活動は停滞を余儀なくされた。加えて、物価も大きく下落し、儒学者・新井白石の理想主義に基づく良質の金銀貨鋳造とともに、日本経済は深刻なデフレに陥った。とりわけ米価の著しい下落は、米に依存する農民や武士の生活に深刻な影響を及ぼした。近松門左衛門による一連の「心中物」浄瑠璃は、このような経済の低迷を背景として登場したのであった。
この間、正徳・享保小判は、外見上きわめて酷似していた。このため、両者を識別するのは、本来きわめて困難な作業であるはずにもかかわらず、江戸時代の貨幣書では正徳小判と享保小判が明確に区別されているほか、明治政府が実施した旧貨との交換に際しても、これらは区別されている。一体どのようにして区別されていたのだろうか。明治期に両者の判別に当たっていた甲賀博士も後日、判別はきわめて困難と述懐しているように、正直いってよくわからない。
ちなみに古銭界では現在、小判表面の刻印「光次」の特徴を基準とした判別法が定着している。「光次」の「光」と「次」の一部が重なって刻印された(重ね光次)ものが正徳小判、両者が離れている(離れ光次)のが享保小判とされている。そして最近では、正徳・享保小判に対する理化学的分析により、この判別法はそれなりの有効性をもつことが確認されている。
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