| 第24話 元禄・宝永の改鋳
一時は世界でも有数の規模を誇っていた日本の金銀産出量は、皮肉なことに幕府貨幣が全国に広く浸透した寛文期(1660年代)ごろから大きく減少した。また、寛文4年(1664)の金輸出解禁に伴い、銀貨に加え金貨もかなりのペースで流出した。
一方、国内経済の成長・発展とともに貨幣に対する需要はさらに高まり、そうしたなかで17世紀後半になると、通貨不足が深刻な経済問題として浮上してきた。
また、元禄期(1688〜1704)に入ると、家康死去時にはおよそ200万両あったといわれる江戸城御金蔵の備蓄金銀がほとんど底をつくなど、幕府財政は危機的な状況に陥った。五代将軍綱吉による豪奢な生活や各地で発生した大火・風水害などを主因として支出が急膨張したためである。このような通貨不足への対応や幕府財政の建て直しを狙いとして、元禄期以降、金銀貨の品位(金銀含有率)や量目(重さ)を引き下げる貨幣の改鋳が実施された。
徳川幕府は元禄8年(1695)、貨幣供給量の拡大および貨幣発行益の獲得を目的として改鋳に踏み切った。元禄小判は、大きさや重さはそれまで流通していた慶長小判と変わらなかったが、品位は約57%と慶長小判(84〜87%)の3分の2にまで引き下げられたほか、銀貨の品位も80%から64%に落とされた。元禄小判の場合、品位の低さに加え、慶長小判との交換に際し当初は100両につき1両の割増金しか支払われなかったため、町人などからの評判が悪く、引き替えは順調にはいかなかった。その後、割増金が20両に引き上げられた結果、引き替えも何とか目標を達成するまで進んだ。
このようにして元禄の改鋳は、所期の目的を一応達成したが、その一方で、金銀貨の品位引き下げが均衡を欠いていたため、金銀貨の流通や一般物価に悪影響が及んだ。金貨との比較で品位引き下げが小幅にとどまった銀貨が退蔵されるなかで、銀貨の対金貨相場が高騰するとともに一般物価も上昇したのである。そのうえ元禄16年(1703)になると、南関東大地震により出費がかさんだため、一時立ち直った幕府財政も再び逼迫するようになった。こうした事態に対応すべく幕府では宝永3年(1706)以降、銀貨の改鋳を4度にわたって断行し、正徳元年(1711)に鋳造が開始された四ツ宝銀の品位は20%と元禄銀貨の3分の1にまで引き下げられた。また、金貨については宝永7年(1710)以降、品位が84%に引き上げられた一方、量目が約2分の1にとどめられた結果、純金含有量が元禄小判をさらに下回る宝永小判が発行された。これら一連の改鋳により幕府財政の再建は大きく進んだが、銀遣い圏においては低品位の銀貨が主に支払手段に利用されたこともあって物価が急騰し、庶民生活が困窮
する事態も生じた。
以上のような事情を背景として、元禄・宝永の改鋳は非常に評判が悪かった。しかし、その一方で、元禄・宝永の改鋳は、通貨不足の緩和に大きく寄与したほか、三貨制の全国への浸透や徳川幕府による政治権力の強大さを示すものとして興味深い。ちなみに、幕府が改鋳金銀貨の通用強制を狙いとして元禄8年(1695)に発出した領国貨幣使用禁止令を契機に領国金銀貨と幕府貨幣との引き替えが完了し、17世紀末には名実ともに三貨制が完成したのであった。
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