| 第23話 世界を駆けめぐった金銀銅
17世紀半ばまでの間、日本は金銀銅という金属資源に恵まれ、中国、ポルトガルやオランダは、金銀銅の獲得を目的として日本との交易に積極姿勢で臨んでいた。そうした交易を通じて日本には唐物、南蛮物と呼ばれる先進的な文物が輸入される一方で、寛永16年(1639)に完成をみた鎖国後も、大量の銀貨が海外へと流出していった。徳川幕府では、この銀貨流出に歯止めをかけるべく鎖国体制の確立後も銀貨の輸出禁止(寛文8年(1668))など、種々の銀貨流出抑制策を講じた。
もっとも、こうした措置にもかかわらず、銀貨流出は止まらなかった。また、小判も寛文4年(1664)の輸出解禁とともに大量に流出し、銀貨に加え金貨も不足するようになった。金銀貨の流出抑制のためには、生糸に代表される輸入品の国内自給体制の確立が不可欠であり、対症療法的な措置だけで金銀貨の流出を抑制することは困難といわざるをえない。実際、銀貨の海外流出が止んだのは、生糸、朝鮮人参、砂糖などの主要輸入物資の国内自給体制が確立され、輸入代替が完了した18世紀後半以降のことであった。
それでは、これら金銀貨はどこへ流れて行ったのであろうか。中国を中心としたアジア諸国だけでなく、遠くヨーロッパ諸国にまで流れるなど、世界を駆けめぐったのである。海外に流出した銀の大部分は、生糸などとの交易品として長崎のほか、後で詳しく述べるように対馬から李朝朝鮮を経て、あるいは薩摩から琉球王国を通じて中国に吸収された。これらの銀が中国国内においてどのように利用されたかは定かではないが、かなりの部分は銀錠と呼ばれる馬蹄型の秤量銀貨に鋳直されたほか、一部は中東経由でヨーロッパ諸国へと流れたと思われる。また、17世紀後半、銀貨が輸出禁止になるまでの間、日本の銀貨は生糸買付資金としてオランダを通じインドのベンガル地方に流れた。ベンガルのオランダ商館では、丁銀をインド通貨ロピアに改鋳のうえ使用したことや、時には丁銀を箱入りのまま売っていたことがわかっている。
一方、金貨(小判)については、オランダ東インド会社などによりインドや南洋諸国との交易に利用された。インドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)においては小判が「クーバン」と称され、オランダ人の手によりそのまま交換手段に用いられたほか、母国からの為替手形の買取手段にも利用された。また、インドに流れた小判は、南東岸のコロマンデル地方において現地のパゴダ金貨に鋳直された。
18世紀に入ってからは、小判に代わって銅輸出に重点が置かれるようになった。その後、銅銭は金銀貨に代わる、わが国の代表的な輸出商品となり、幕末までの間、中国や東南アジアに輸出された。寛永通宝は広く東南アジアでも貨幣として流通したほか、一部は鍋、釜など日用品の原料にも利用された。また、日本産の銅は、オランダによりアムステルダム銅市場での銅価格の操作手段として利用されるなど、ヨーロッパ諸国でも重要な役割を果たしていた。
このように、江戸時代の日本経済は鎖国からイメージされる封鎖体系とは大きく異なる。アジアやヨーロッパ諸国との間で、金銀銅を媒介として密接な経済関係を維持していたのである。
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