| 第22話 鎖国は鎖国にあらず
信じられないかもしれないが、慶長・元和期(1596〜1624)を中心とした約1世紀の間、わが国はボリビア、メキシコと並ぶ世界でも有数の銀産出国であった。とりわけ、天文年間(1532〜55)に灰吹法あるいは南蛮絞りという、最新の銀銅の吹き分け技術が朝鮮から伝来したのを契機として、銀の産出量が激増した。この時期における銀産出高の詳細は明らかではないが、たとえば17世紀初期の銀輸出高は年間130〜170トン、日本を除く世界の年間産銀量400トンの約4割を占めていたことからも、銀産出量の大規模振りが窺われる。
この銀の大量産出期は、ポルトガル、オランダなどヨーロッパ諸国が胡椒・香料等の獲得のためアジアとの貿易に乗り出してきた時期でもあった。彼らは中国を核としたアジア中継貿易での交易品になりうる銀の調達を目的として、日本との交易に進出してきた。そして、16世紀後半は、インド・ゴア−マカオ−中国・寧波(ニンポー)という貿易ルートを掌中に納め、良質の中国産生糸を対日輸出品として確保していたポルトガルが
日本との貿易をほぼ独占していた。
17世紀に入ると、わが国からは朱印船が東アジア諸国との交易に乗り出したほか、オランダ、中国も日本との生糸貿易に漸次参入してきた。このような種々のルートを通じて、1630年代には年間平均30〜40万斤、大人用の着物換算で約10万着分という大量の生糸が日本に流入し、その対価として、大量の銀が流出していった。
こうした状況下、徳川幕府では慶長9年(1604)、銀流出抑制を目的として、糸割符(いとわっぷ)制を導入のうえ生糸貿易の管理に踏み切った。さらに、慶長14年(1609)には貨幣素材確保のため、純度の高い灰吹銀の輸出を禁止する一方、品位80%程度と素材価値の劣る流通銀貨(慶長丁銀)の対外交易への使用を求めるとともに、長崎銀座を通じて銀輸出の管理・統制に努めた。しかし、生糸に対する根強い需要を前にしては銀の大量流出を食い止めることはきわめて困難であった。このため、徳川幕府では寛永16年(1639)、鎖国という貿易管理政策の導入により銀の流出を抑制・管理することとした。
鎖国政策は、しばしば指摘されるように、キリスト教の布教禁止を主たる狙いとしていた。しかし、貿易が全面禁止になったわけではなく、オランダ、中国、朝鮮、琉球との貿易は引き続き行われており、その意味で「鎖国は鎖国にあらず」ということができる。鎖国政策はむしろ貿易管理政策としての色彩が強く、交易国に貿易利益の獲得機会を排他的に供与する一方、金融面では内外市場遮断措置として機能し、国内における国際相場とは乖離した金銀貨価値の設定や金銀比価の形成を可能にした。この内外遮断措置に支えられ、徳川幕府では元禄期以降貨幣の改鋳を実施していったが、そうした金銀比価の内外不均衡は幕末の開港時に金の流出圧力として作用した。
鎖国はまた、西国大名による貿易利益の獲得機会を消滅させるとともに大名の経済的基を領国の石高に限定する一方、幕府の経済力を相対的により強固なものとした。このように鎖国は、貿易だけでなく、国内の政治経済体制にも大きな影響を及ぼした。
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