| 第21話 寛永通宝と渡来銭
天下を統一した徳川家康にとっても、銭貨の統一はきわめて困難な事業であった。金銀貨については、強大な政治権力や金銀の素材価値によりその通用力を保障することができた。一方、銭貨の場合、日常の交換手段として既に広く利用さ
れていただけでなく、中国から輸入された宋銭明銭のほか、国内で鋳造された私鋳銭など、多種多様な銭貨が数百万貫文という規模で市中に滞留していた。加えて、銭貨の多様性を背景として、撰銭(えりぜに)行為も引き続き見られた。そうしたなかで統一銭貨を流通させるには、短期間のうちに大量の銭貨を鋳造するとともに、新銭貨と多種多様な旧銭貨との交換比率を定めたうえで一挙に市中に投入する必要があったのである。
銭貨統一はこのようにきわめて困難な作業であり、家康の在世中に新銭貨が鋳造されることはなかった。金銀貨の鋳造から35年を経た寛永13年(1636)に至って漸く、三代将軍家光の手により寛永通宝の鋳造が開始されたのである。この名称は鋳造時の年号にちなんでいるが、その後、鋳造された一文銭貨のほとんどは寛永通宝と称された。なお、銭貨は、金銀貨とは異なり、全国各地の商人による請負制によって鋳造された。以下、寛永通宝による銭貨統一までの過程を振り返ることにしよう。
銭貨の統一に際し徳川幕府が最初に試みたのは、撰銭の解消あるいは銭貨価値の統一であった。徳川幕府では慶長9年(1604)、計算基準貨幣として重要な地位を占めていた中国明の永楽銭と鐚銭(びたせん)との交換比率を1対4と定め、永楽銭以外の鐚銭についてはすべてその4分の1の価値での通用を強制した。しかし、撰銭の慣行は強まりこそすれ、なくなることはなかった。このため、慶長13年(1608)12月、徳川幕府は永楽銭の基準貨幣としての取り扱いを廃止し、すべての銭貨の通用価値を鐚銭のそれに統一するとともに、金1両=銀50匁=銭4貫文という江戸期幣制の基礎となった交換比率を定めた。それでも、多種多様な銭貨の流通を前にして、撰銭はなかなか解消しなかった。
寛永13年(1636)、1両=4貫文という金銭比価の浸透を受け、徳川幕府は寛永通宝という新銭貨の鋳造に踏み切った。その後、寛永通宝は、銭座の増設などを媒介として大量に鋳造されたが、全国に広く浸透したのは、寛文8年(1668)のいわゆる「文銭(ぶんせん)」の大量鋳造以降のことである。そして、寛文10年、寛永通宝以外の銭貨の通用が禁止された。これはまた、ちょうど金銀貨が全国へと普及した時期でもある。このようにして、江戸時代の幣制は、金銀貨鋳造開始から約70年を経た寛文期になって漸く完成したということができる。
寛永通宝は、古銭(渡来銭・私鋳銭)との引き替えで発行されたが、徳川幕府では種々の流通促進策を講じていたようだ。東海道の宿場など、銭貨需要の高いところに拝借金(贈与)として供給する一方、金貨を貸し付け、古銭での返済を求めることにより古銭の早期回収を図っていたことが宿場資料により確認されている。この間、回収された古銭のほとんどは、現物のまま、あるいは北宋銭に鋳直されて東アジア諸国に輸出され、
日本国内から姿を消した。
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