| 第20話 東の金遣い、西の銀遣い
前回述べたように、江戸時代においては金銀銭貨という三貨はいずれも、全国各地で無制限に通用する法貨であった。これらのうち小額貨幣として広く流通していた銭貨に関しては、金銀貨に対する補助貨幣であるとされることが多いが、そうした捉え方は必ずしも適当ではないと思われる。銭貨も立派な法貨であり、「文」という価値単位を有する独自の貨幣として無制限に流通していたからである。このことは、銭貨と金銀貨との間に交換相場が立っていたことからも明らかである。
一般に貨幣には価値尺度、交換手段および貯蔵手段という3つの機能があるとされる。江戸時代においては金銀銭貨という3つの貨幣がそれぞれ対等な法貨として流通していた。あるいは、三貨それぞれが両、匁、文というそれぞれの貨幣単位にしたがって交換手段や価値尺度として利用されていた。やや理屈っぽくいうと、江戸時代の人々は、意識するしないにかかわらず、金銀銭貨のうちいずれの貨幣を価値尺度、交換手段あるいは貯蔵手段として利用するかという問題に直面していたのである。この問題はどのようにして解決されたのだろうか。
結論は簡単である。各地方あるいは各商品ごとの取引慣行や徳川幕府による貨幣供給政策などを与件として、市場において決められていたのだ。ノーベル経済学賞を受賞したヒックス教授は、これを「貨幣の市場理論」と呼び、ヨーロッパ諸国における貨幣の変遷などを通じて証明しようとされたが、江戸時代の幣制こそ、そうした事実を見事に示している。ヒックス教授が日本の貨幣史についてご存じであったならおそらく江戸時代の三貨制に言及されたのではないかと思われる。
実際、江戸期幣制の特徴を示す言葉に、「東国の金遣い、西国の銀遣い」がある。つまり、小額貨幣として全国に広く利用されていた銭貨を除けば、東日本では金貨建て・金貨支払いが主流であった一方、西日本では銀貨建て・銀貨支払いが大部分を占めるなど、貨幣の利用は地域的にも異なっていたのである。この背景としては、徳川家康は幣制の統一に際し金貨体系を確立しようとしたが、西日本では中国との貿易に際し銀が古くから決済手段として利用されるなど銀遣いがすでに支配的となっていたため、幕府としても追認せざるをえなかったといった事情が挙げられることが多い。
財物の価格表示も商品ごとに異なっており、江戸でも大坂から輸送されたものについては、原則として銀目で表示されていた。したがって、江戸においては金銀銭貨という三貨すべてが価値基準および交換手段に用いられていたのである。この傾向は、後で詳しく述べるように、安永元年(1772)の明和南鐐二朱銀という金貨単位の計数銀貨の発行とともに強まった。そうしたなかで、商人の帳場は通貨別に作成され、商品の仕入れや販売は各通貨に仕分けられた後、記帳されるなど、江戸、大坂とも現代でいう多通貨会計が支配的な世界にあった。江戸時代の商人の才覚はいかばかりのものであったのであろうか。
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