| 第19話 三貨制の成立
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦に勝利し、天下の覇権を握った徳川家康は、経済流通面から全国支配を確固なものとすることを狙いとして、直ちに全国的な幣制の統一に着手した。そして、翌慶長6年(1601)には、約650年振りの中央
政権による公的貨幣として、慶長小判をはじめとする慶長金銀貨が鋳造され、ここに江戸時代300年にわたる幣制の基礎が築かれた。
金貨の場合、秀吉の天正大判、家康自身が先に鋳造した武蔵墨書小判を範として、慶長大判、慶長小判が鋳造された。これらの金貨は、甲州武田氏が鋳造した甲州金貨の価値尺度を踏襲したものであり、両を計算単位とする計数貨幣として小判には1両、大判には拾両という価値が付された。また、商品流通面にも配慮のうえ、一分金という小判の4分の1の価値を有する比較的小額の金貨も発行された。
これら三種類の慶長金貨のうち大判は、恩賞、儀礼等の特殊な用途に利用されることが多く、交換手段として利用される場合は、金の含有量を基準に大判1枚当たり7.5両前後で取引された。一般的な交換手段として発行された小判および一分金は、額面価値で通用した。徳川幕府では、これら金貨の貨幣の認証性を維持するため、鋳造に際しては形状、品位(金の含有量)、量目(金貨の重さ)を厳格に統一したほか、小判の「光次」という花押については、流通面にも配慮のうえ墨書きに代えて極印が捺された。墨書の場合、市中を転々流通する過程で消えてしまうため、そのつど鋳造元の金座に出向いて書き直してもらう必要があったからだ。
一方、銀貨は当時の流通実態を踏まえて重量を基準として価値が示される秤量貨幣として、丁銀および豆板銀が鋳造された。銀貨の場合、品位が規定されていたことを除けば、引き続き地金のまま通用していた。実際、ナマコ形をし
た丁銀の重さは40匁前後であり、端数となった重量の調整には10匁以下の銀の小片である豆板銀が用いられた。この間、徳川幕府では、公鋳貨の安定的供給のため、全国に散在する金銀銅などの主要鉱山のほとんどを直轄領として掌中に納めたほか、金座・銀座を通じて流通金銀の回収を図るなど、貨幣素材の確保および一元管理体制の確立に努めた。
このように徳川家康による幣制の統一は、既に諸国で流通していた金銀貨を整理・統合するかたちで実施された。一方、小額貨幣である銭貨の統一作業は遅れ、寛永13年(1636)に至って漸く寛永通宝という銅一文銭の鋳造が始まった。そして、慶長13年(1608)には、金1両=銀50匁=銭4貫文という金銀銭貨間の交換比率が公定された。もっとも、実際の交換比率は市場実勢によって決められ、日々変動していた。
以上のように、江戸時代は金銀銭貨が基本通貨として機能しており、このことにちなんで江戸期幣制は三貨制と呼ばれる。もっとも、供給面での制約もあって、三貨が全国に普及するまでにはかなりの時間を要し、広く交換手段として利用されるようになったのは、寛文年間(1660年代)のこととされることが多い。それまでの間、諸国では戦国大名がかつて鋳造した領国銀貨が流通していたが、幕府貨幣の浸透にあわせて回収され、幕府の金銀貨に交換された。
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