| 第18話 信長・秀吉・家康の貨幣
前回述べた信長、秀吉および家康の経済政策の相違を念頭に置いて、今回は彼らの貨幣政策
を論じることにしよう。
最初は信長である。信長は天下統一半ばで横死したため、貨幣の鋳造を行うことはなかった。
にもかかわらず信長は、銭貨の流通実態を踏まえた悪銭の割引通用率を初めて定めるなど、貨
幣史上画期的な業績を残している。信長は永禄12年(1569)年の撰銭令において、増大する貨
幣需要の充足および銭貨の通用価値の安定化を狙いとして、悪銭を上中下の3種類に区分のう
え、2枚、5枚、10枚でそれぞれ良銭1枚と等価とすることを定めたのであった。
このほか、信長は銭貨不足を緩和すべく、高額商品を対象として金銀の使用を積極的に認め
るとともに、金10両=銭15貫文、銀10両=銭2貫文(1貫文は1,000文)という金銀と銭貨の比
価を施政者として初めて定めた。その意味で、信長の貨幣政策は金銀銅貨からなる江戸期貨幣
制度の先駆けといえよう。ただし、信長の場合、金銀貨はいずれも重さで価値を示す秤量貨幣で
あり、両は引き続き金銀の重量を示す単位にとどまっていた。
豊臣秀吉といえば、天正17年(1589)に聚楽第で行われた「太閤の金くばり」や「黄金の茶
室」が有名である。この逸話が示すように金銀を賞賜・贈答のほか権勢誇示に用いたため、秀
吉は金銀を蓄蔵、浪費しただけとされることが多い。しかし、必ずしもそうとは言い切れない。
関所の撤廃や楽市楽座を敢行したことからも明らかなように、秀吉は経済活動の重要性を熟知
しており、重量と品位が保証された良質の金銀貨の供給は、結果として、商業取引の振興・発
展に寄与したと考えられるからである。
実際、秀吉は堺の今井宗久、摂津・平野郷の末吉などの豪商と結んで多田・生野などの鉱山
を積極的に開発のうえ直轄領とし、そこから産出した金銀を用いて秤量貨幣を鋳造した。金貨
の場合、元金細工師の後藤徳乗に命じて、桐の極印を捺した天正大判などを鋳造した。一方、
銀貨については堺の銀吹人であった湯浅作兵衛常是に大黒天の極印を打刻した良質の灰吹銀を
鋳造させた。
秀吉が鋳造を命じた金銀貨は大判と極印銀に限られているが、さまざまな種類の金銀が貨幣と
して流通しているなかで一定の品位を保証した金銀貨を大量に鋳造し、統一的な貨幣制度への
出発点を形成したところにその貨幣史上の意義が見いだされる。
徳川家康は、秀吉の在世中に後藤徳乗の手代であった橋本庄三郎(その後、徳乗の養子にな
る)を領国の関東に呼び、文禄5年(1596)以降、武蔵墨書小判という金貨の鋳造に当たらせ
ていた。こうした事情もあって、徳川幕府下においていち早く安定的な貨幣となったのは金貨
であり、徳川幕府成立後は小判(慶長小判)が大量に鋳造された。
また、慶長6年(1601)には伏見に銀座が設置され、大坂や平野郷の商人が銀貨(慶長銀)の鋳造にあたった。ここに、江戸期幣制の基礎が固まったといえよう。この間、後藤家には信長が大判の鋳造を命じたという記
録が残っており、これが事実とすれば、金銀貨の鋳造も信長により構想され、秀吉、家康によって開花させられたということができる。
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