| 第17話 信長・秀吉の経済政策
日本の社会が中世から近世へと移行を遂げる過程では、3人の傑出した戦国武将が登場した。織田信長、豊臣秀吉および徳川家康である。こ
れらの武将については、小説やテレビでお馴染みではあるが、その経済政策に関しては案外知られていない。ここでは、彼らの経済政策につ
いて簡単に述べることにしよう。
最初は織田信長である。信長については、楽市楽座、関所撤廃に代表される商業政策の斬新さが評価され、中世の幕を引き、近世の扉を開けたとされることが多い。しかし、信長の政策はなお中世的色彩を色濃く残しており、その意味で中世・戦国期最後の覇者といえよう。近世の経済体制は、豊臣秀吉によって打ち立てられ、徳川家康によって整備・完成されたのである。
確かに信長による楽市楽座は、先駆的な商業政策であった。しかし、楽市楽座の適用範囲は美濃加納、安土などといった領内の城下町にと
どまり、京をはじめとする他の商業都市は対象とならなかった。むしろ京では、卓越した経済力をもつ有力町人に対する懐柔策の一環として、座が積極的に安堵(是認)されたのであった。座の廃止に伴う商品流通の混乱が京や畿内への物資流入を阻害し、信長の政治経済力を減殺するかもしれないという懸念も作用したと思われる。また、関所撤廃政策も徹底さを欠き、天皇
が支配していた「京七口関」(鞍馬口、丹波口、三条口などに関があった)には手がつけられなかった。
この京七口関を撤廃したのは豊臣秀吉であった。秀吉は、信長とは異なり、農民出身であったこともあって、既成の秩序にとらわれることが少なく、その優れた経済感覚に基づき各種の先進的な施策を次々と実行していった。天正13年(1585)に出した楽座令によって全国すべての座を廃止したほか、朝鮮出兵にかかわる戦費調達のため、慶長2年(1597)、京・伏見・大坂・堺の商人に売物5分の1役という税率20%の税金を賦課した。
また、秀吉の経済政策といえば、太閤検地に基礎をおく石高制および年貢の米納制の導入を欠かすことはできない。室町時代になると、わが国においても広範な商品経済社会が成立し、室町幕府も役銭の徴収というかたちで商業に課税していた。経済感覚に優れ、そうした事実を熟知していた秀吉が、なぜ農民に年貢という税を課したのだろうか。撰銭の広範化に伴い銭貨価値が不安定化していた16世紀後半の社会においては、米が最も価値が安定すると同時に換金性に富む商品であったからだ。それを年貢として農民の手から取り上げ、武士の食用に必要な分(20%前後)を除き、残りの米はすべて商品として販売していた。ここに、石高制と米納年貢制の本質があり、秀吉は貨幣の代わりに商品としての米を掌中に納めたのであった。
太閤検地はまた、土地改革としてはきわめて画期的なものであった。武士による土地所有を認める中世以来の在地領主制を否定し、いうなれば土地の公有化を図ったのである。この結果、大名は中央政権から知行という土地の用益権のみを付与され、政権の裁量により全国どこへでも移封されることになった。ここに、江戸時代幕藩体制の経済的基礎が構築されたのである。
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