| 第16話 戦国時代における貨幣の流通
前回述べたように、16世紀以降、撰銭(えりぜに)という貨幣選別行動が広まるなかで、東日本を中心に永楽銭という銭容のはっきりした明銭が、卓越的な通用力をもった基準貨幣として利用されるようになった。その後、西日本でも16世紀半ばから永楽銭の地位が高まり、基準貨幣に採用される傾向が強まった。戦国の覇者である織田信長が永楽銭を旗印に掲げていたことは、当時の社会においては永楽銭が富の象徴であったことを如実に物語るものといえよう。一方、永楽銭以外の渡来銭や私鋳銭は、外形的な損耗度合いなどにより決められた市場価値に基づき交換手段として減価流通していた。
銭貨の市場価値は、ものやお金の売り手あるいは買い手により主観的に定められた。同じ銭貨であっても、取引相手、取引場所などが異なれば、違う市場価値が付されることが少なくなかった。このため、有力大名は、領内での各種経済取引の円滑な履行を狙いとして、幾度となく撰銭行為を禁止したが、撰銭はなかなかなくならなかった。このことはまた、朝廷や幕府が長年にわたって造幣大権を放棄してきた結果として、室町時代末期、渡来銭の老朽化とともに、その一般価値基準としての機能が後退していったことを意味していた。
このような流通銭貨の質的変容は、渡来銭の機能や商業活動に対しどのような影響を及ぼしたのであろうか。第1に、各種銭貨の流通価値を確定するため、物を売買するたびに銭の両替を業とする銭屋に銭貨価値の鑑定を求める必要が新たに生じ、そうした取引費用の増大が渡来銭の交換手段としての機能をさらに低下させる方向で作用した。第2に、良銭を手に入れた者は、それを富の蓄蔵手段として退蔵したため、良銭の流通量はさらに減少する一方、悪銭の流通量は増大していった。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則が働いたのである。第3に、渡来銭価値の不安定性増大は、支払決済面から商業活動を抑制する方向で作用した。『妙法寺記』と呼ばれる甲斐の妙法寺に残された記録には「売買なし、撰銭」という記述があり、撰銭の結果、銭がつまり、売買が細ったことが窺われる。
そうしたなかで16世紀後半以降、畿内や西日本諸国においては、銭貨に加え、米が再び交換手段として利用されるようになった。織田信長が永禄12年(1569)に出した撰銭令では、八木(はちもく、米は当時こう呼ばれた)の利用が禁止されていたが、このことは、裏返せば、撰銭に伴う銭貨の信用低下とともに米が交換手段として利用されるようになったことを意味しているといえよう。
それでは、なぜ米が貨幣として再び利用されるようになったのであろうか。中世を通じて根強く生き続けていた米の貨幣としての機能が再び表面に現れたとされることが多いが、それ以上の経済的誘因があったと思われる。当時の社会において価値が安定すると同時に転売性に富
んだ商品は、米であった。したがって、撰銭の広範化とともに流通価値が下落傾向にあった銭貨よりも、転売の容易な米が銭貨に代わる交換手段として受け入れられるようになったのは、むしろ当然の帰結とも考えられるのである。
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