| 第15話 東と西の永楽銭
室町時代中期以降わが国に大量に輸入された永楽通宝を中心とする明銭は当初、貨
幣としてなかなか受け入れられなかった。このため、室町幕府では、明銭の使用を奨励したほか、
永楽銭に対する撰銭禁止令を公布した。しかし、民間においては、明国で永楽銭に代表され
る明銭の貨幣としての使用が忌避されていたことが色濃く影響していたのであった。なお、
明国で明銭の使用が忌避されたのは、明政府が税の支払いに際し銭貨での受け取りを拒否したという
事情が挙げられる。
こうした傾向は、中国からの情報の伝達が早いほか、唐・宋などの古銭を貨幣として
重視する西日本でとくに強かった。しかし、東日本では関東地方を中心として、逆に明
銭が流通貨幣の主体を構成していた。それはまた、文禄2年(1593)、佐竹義宣の家臣
大和田重清は、常陸の国に帰郷するに際し、京都でわざわざ知人に依頼して永楽銭を集
めていたとか、会津地方では永禄年間(1558〜70)に貨幣を永楽銭に限定していたとい
った史実により確認できる。西日本と東日本での永楽銭の取り扱いに関する相違は、「東
の絹・布、西の米」という古代からの物品貨幣の違いや、江戸時代における「東の金遣い、
西の銀遣い」という貨幣利用の地域差とも符合しており、きわめて興味深い。
関東地方を中心とする東日本では、数ある明銭のなかでも素材価値が安定的で形状・品質が
ほぼ一定していただけでなく、銭容・品格の面でも優れていた永楽通宝が基準銭貨とし
ての地位を獲得した。そして、その他の渡来銭の流通価値は、永楽銭との対比で決定された。
こうしたなかで、各種財物の価格も永楽銭を基準として表示・計算されるようになった
ほか、戦国大名による農民からの賦課取り立てに際しても、「永高」と称されるように
永楽銭を基準として石高が計算された。
永楽銭の使用に関し、なぜこのような地域差が生まれたのだろうか。この
点に関しては通常、次の3点が指摘されることが多い。第1に、東日本の場合、銅銭の
普及が西日本に比べてやや遅れた結果、唐・宋銭に対する選好度合いが相対的に低かっ
た一方、銭形・銭文のはっきりした明銭が選好されたことが挙げられる。第2に、東日
本は中国との経済関係が相対的にみて希薄なため、当地での貨幣流通事情に関する情
報が不足していたことが指摘できる。第3には、西日本で好まれない明銭が、結果とし
て東日本に大量に流入し、貨幣としての通用力を高めていったという事情がある。この
ほか近年、永楽銭を尊重する貨幣観は、北・中部関東の内陸部において独自に形成され
たのではないかと主張する向きもある。
その後、16世紀後半の永禄年間に至ると、関東地方に加え三河以西に
おいても永楽銭を最高貨幣とする傾向が現れた。このころからまた、近畿以西でも永楽
銭が基準貨幣としての地位を次第に占めるようになってきた。そして、慶長13年
(1608)の徳川幕府による鐚銭化、すなわち流通価値が4分の1に減額されるまでの間、
永楽銭は約30年間にわたって各種渡来銭の価値基準および租税、財物価格の計算基準として
機能することになった。
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