◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第14話  金銀の増産と領国貨幣

 わが国では古来より金銀銅資源に恵まれていたが、室町時代末期以降、金銀の増産が 進んだ。とりわけ銀に関しては日本は、16世紀後半から17世紀前半にかけて、東アジアは もとより世界でも有数の銀産出国であった。この金銀の大量産出は、江戸時代における 金銀銅貨からなる三貨制という貨幣制度の確立を素材供給面から支えた。また、金銀の 獲得を目指して、中国やポルトガル、オランダがわが国との貿易に乗り出してきたのであ った。
 金銀の増産には、技術革新の進展が大きく寄与した。第1に、戦国時代には、大規模 な城の建設ラッシュが示すように、土木技術が飛躍的に向上し、そうした最新の 技術が鉱山開発に動員された。この結果、伝統的な路頭採取に代わって、坑道を掘 って鉱石を採取するのが一般的となった。第2には、灰吹法(はいふきほう)という金 銀の吹き分け法が中国や朝鮮から伝えられ、この新技術が金銀の抽出を容易にしたのだ。 灰吹法では、熱した鉛に金銀鉱石を溶かし込み、灰を入れた炉のなかで鉛と金銀が分離 された。
 一方、需要サイドにおいては、次のような要因が金銀の貨幣としての利用を求めた。 第1に、商工業の発達に伴い、銭貨という小額貨幣のほか、業者間の大口の資金決済を 円滑に行うため、金銀からなる高額貨幣が必要とされるようになった。第2には、 戦国大名が軍資金の捻出手段や土地に代わる報償物として、金銀に目を向けたという事情 が指摘できる。戦国大名は、城郭の建設、鉄砲や兵服購入のための支払い手段と して金銀を利用しようとしたのである。
 金銀が交換手段として受け入れられたのは、それらが中国との交易に利用できたから であった。
 このような時代環境の下で越後上杉氏、小田原北条氏、周防大内氏、甲斐 武田氏などの戦国大名は、領内の鉱山を積極的に開発のうえ、鉱山からえた金銀から貨 幣を鋳造した。これらを総称して領国貨幣という。領国貨幣は、戦国時代から徳川幕府が 鋳造した金銀貨が全国に普及するまでの間、約150年にわたって流通していた。金貨の場合、 運搬や輸送に便利なように、その大きさや形状は定型化の方向をたどり、蛭藻金(ひるもきん)、 譲葉金(ゆずりはきん)など長円形が一般的なかたちとして採用され、これが後の大判、 小判の基礎となった。
 一方、銀貨に関してはボタン状の灰吹銀からナマコ状の銀塊(これを丁銀という)といった 形態面での変化はあったが、基本的には地銀に近いかたちで流通していた。また、銀貨の利用 に際しては、決済金額が銀貨価値に満たない場合、当該金額に見合う分だけ切り取って銀貨 をやり取りする「切り遣い」もみられた。
 もっとも、領国貨幣の場合、定型化にもかかわらず、同じ貨幣であっても、金銀貨の鋳造技術が 十分発展していなかったため、品位や量目の面でバラツキがみられた。こうしたなかで金銀の貨幣 としての流通力を高めたのが、金屋、銀屋と呼ばれる富商が金銀貨のうえに刻んだ極印であった。 一般の人々は金銀の品位鑑定能力をもっておらず、極印の有無で金銀の貨幣としての流通力を判断 していたのである。そして、金屋、銀屋などのなかから後藤徳乗や大黒常是など、江戸時代に金座、 銀座を委託された金銀商人が生まれた。

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