| 第13話 徳政令の意味
借銭・利銭、祠堂銭といった金融取引の発達は消費支出の増大を促したが、その一方
で、利息は年利5〜6割と高利であったことから返済は容易ではなかった。担保として
差し入れられた土地だけでなく、地頭職という年貢の徴収権も土倉や社寺に流れ、御家
人階級の生活を次第に圧迫していった。こうした事態からの御家人の救済を目的として
出されたのが、徳政令であった。鎌倉時代末期の永仁5年(1297)に発出されたのが徳
政令の初見であり、この場合、徳政の対象は幕府御家人に限定されていたことからわか
るように、債務の強制的破棄によって担保として土倉に供出された土地を御家人=領
主の手許に取り戻すところに狙いがあった。徳政令は、その言葉とは裏腹に、商品経済
の進展とともに勃興してきた商業・金融資本による富の蓄積がもたらした封建的な身
分制度や土地所有の崩壊を防止しようとした反動的な政策であったと考えられる。
室町時代に入ると、土倉は当時権勢を誇った延暦寺、八坂神社などの寺社と結託し、
神仏を盾にして債権の保全に努める一方で、より強力な取り立てを行った。当然のこと
として、こうした強引な債権の取り立ては、封建的な身分制の崩壊を促すことになった。
これに対し、室町幕府では土倉による取り立てを制限・禁止する令をしばしば出したほ
か、徳政令の対象を拡大していった。武士だけでなく、一国単位あるいは全国一律に農
民も対象とした大規模な徳政令が発出されるようになったのだ。
やがて、幕府権力が弱体化するなかで、15世紀半ば以降、徳政令の施行を求める惣
村農民による一揆が頻発するようになった。これを徳政一揆あるいは土一揆という。土
一揆というと、無理矢理に質券や質物を奪っていく暴力的行為が連想されるが、これは
史実とは大きく異なる。土一揆は、現代的にいうと農民による団交という性格が強く、整然と
行われていた。しかし、いずれにしても、徳政令は、商品経済の進展を阻害するお
それが強かったため、より穏健な徳政禁制(きんぜい)が徳政令と交互して出されるよ
うになった。徳政禁制は、借金の棒引きに代え割引きを布告して、債務者による申告に基
づき債権・債務関係を明確化することを目的としたものであった。
一方、商品経済の枢要地である都市の御用商人や金融業者に対しては、商業振興のた
め、徳政令の適用が免除された。このため、徳政令や徳政一揆に脅かされるおそれのあ
る惣村所在の金融業者などは、京都に逃げ込んで将軍・大名などの御用商人となり、そ
の庇護の下で徳政免除の特権をうることが多くなった。このようにして室町時代も15
世紀に入ると、商品経済の発展とともに身分制社会が崩れ、戦国時代を通じて新しい社
会秩序が形成されていった。
近年、各地の遺跡から中世の埋蔵銭が出土しているが、銭を地中に埋めるという行為
には、地の神仏による加護を願うほか、財産の保全という現実的な意図も秘められてい
たようだ。財産を土倉に預けた場合、徳政令により土倉の債権放棄が強制されると、必
然的な結果として土倉に預けたお金が返ってこなくなるおそれがあったからである。
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