◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第9話  私鋳銭の登場

 中国銭や皇朝十二銭を模造するという貨幣の私鋳は、鎌倉時代以降漸次盛んになり、 室町時代中期あるいは15世紀後半以降とくに顕著となった。現代に生きるわれわれの 感覚からすると、貨幣の私鋳は偽造と同義と考えられるかもしれない。しかし、鎌倉・ 室町時代にあっては朝廷・幕府とも造幣大権を主張しなかったため、貨幣の私鋳は法 的・社会的にみてなんら不当な行為ではなかった。むしろ、増大する貨幣需要を満たす ために編み出された手段と考えられる。
 それでは、一体、誰がどのような意図で貨幣を私鋳したのだろうか。これらの問題に ついて、私鋳主体から順次考えることにしよう。銭貨私鋳の主体は、原料銅の入手や鋳 造技術へのアクセスが容易であった有力諸侯や地方の豪族・大商人(ときには幕府自 体)といわれている。例えば、室町末期から江戸時代初期にかけて薩摩島津氏が、 領内における通貨需要の充足を目的として「加治木銭」と呼ばれる模鋳銭を鋳造してい たことが知られている。徳川幕府の銭座奉行であった鳴海氏は、その由緒書において「足 利義持将軍のとき以来、幕府の永楽銭私鋳に従事した由緒正しい家柄」と主張している。 このほか、大阪は堺市で発掘された環濠都市遺跡の中心部において多数の鋳型が出土 しているが、このことは、大商人あるいは豪族がその自宅で貨幣の私鋳を行っていたこ とを示唆していると考えられる。
 次は、私鋳銭の鋳造技法にかかわる問題である。私鋳銭の大部分は、本物の貨幣(こ れを種銭という)から直接伝写した「鋳写銭」であった。このほか、渡来銭の文 字を改変して型どりをしたものや、新たに独自の原型を彫って型どりしたものもみら れた。その結果、私鋳銭は銭形が小型化したり、銭文が不鮮明であっただけでなく、材 質的にも見劣りし、一見しただけで私鋳であることがわかった。そして、日本銀行貨幣 博物館所蔵の鋳写銭だけでも64種に達することから明らかなように、私鋳銭には実に 多種多様なものがあった。
 ところで、私鋳者たちは、どういった経路で原料となる銅を入手したのだろうか。こ の問題に関しては、これまでのところあまり検討が試みられていない。しかし、室町時代 末期あるいは戦国時代までの間は、古来より豪族や商人の手許に蓄蔵されていた皇朝十二銭 のなかでも品質の劣る後期皇朝銭や、「われ」「かけ」「打ちひらめ」と呼ばれるように、 摩滅や損耗が著しくて流通価値が大きく低下した渡来銭が溶解のうえ利用されていた可 能性は否定できないだろう。
 では、私鋳銭はどのようなかたちで利用されたのだろうか。先に述べたように、あ る貨幣が私鋳銭であるか否かは、形状や手触りからほぼ即断できるため、直接そのまま 利用されることはさほど多くはなかったのではなかろうか。当時においては、貨幣の計 算・受け渡しを容易にするための工夫として、銭貨を100枚単位でまとめて紐で束ねた もの(これを銭緡(ぜにさし)という)が授受されていた。この銭緡のなかに数枚潜ま せるというかたちで、利用されたとする説が有力である。

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