| 第8話 義満と渡来銭
室町時代に入ると、中国との貿易は元から明への王朝交代もあって一時途絶えた。し
かし、応永8年(1401)に至り、三代目将軍足利義満は、日本国王「源道義」として明
との朝貢貿易を開始し、その後、約50年の間、中国銭の輸入は室町幕府が一元的に行
うことになった。将軍義満が明帝国を中心とする華夷文化圏の一衛星国家としての立
場を受け入れたのは、中国文化の日本側の受入窓口になることでその権威を国内外に誇
示しようとしたことや、輸入に伴う貿易利益の獲得という現実主義的な意図があったと
いわれている。
とりわけ室町幕府の場合、その財政的基盤は脆弱であったため、遣明船一回の派遣で
数万貫文という年貢収入の数倍の規模に達する貿易利益は財政構造を大きく改善させ、
これが金閣寺(当時は北山殿と称された)に代表される北山文化隆盛の経済的基礎とな
った。応永14年(1407)8月、北山殿に参候した明使を公卿達の批判をよそに将軍義
満が「唐服」を着て愛敬を振りまいたのもうなづけるだろう。義満が日明貿易を開始し
た15世紀になると、金と銅銭の比価は日本・中国ともほぼ同じ水準になり、金を輸出
して銅銭を輸入しても儲からなくなった。このような金銅比価平準化の動きを受け、中
国への輸出品の主力は金から日本刀に変わり、わが国は東アジア地域における有数の武
器輸出国家となった。
このような状況においては、銭貨を輸入するよりも、国内で銭貨を鋳造・発行した
ほうが有利と考えられるが、将軍義満はなぜ中国銭を引き続き輸入したのだろうか。
第1に、将軍の権威がいくら強大になったとしても、日本国の名目的な主権者は天皇で
あり、貨幣発行および銭文の決定権限は天皇にあるという政治的な事情が挙げられる。
第2に、仮に銭貨を鋳造した場合、その貨幣としての信用度をどのようにして確保・
維持していくかという経済的事情に対する配慮が指摘できる。将軍義満は、現実主義者
として、このような政治・経済的事情に考慮のうえ、中国銭の輸入に踏み切ったといえよう。
やがて15世紀半ばに至ると、国内における銭貨不足を理由として中国が輸出禁止措
置を発動するに至ったため、永享4年(1432)以降、銭貨の輸入はほとんど途絶えるこ
とになった。これに対し、室町幕府では、わが国での貨幣需要の高まりを満たすべく、朝
鮮、琉球、安南(ベトナム)からも銭貨を輸入した。また、このころから中国私鋳銭の
流入がみられたほか、次回詳しく述べるようにわが国においても渡来銭を模造した私鋳
銭が流通するようになるなど、私鋳銭の流通量が増大していった。このようにして15
世紀後半以降のわが国においては、きわめて多種多様な銭貨や私鋳銭が支払手段とし
て流通することになった。
室町幕府の権力低下とともに、明との貿易は有力大名などが取り仕切るようになった。
そうしたなかで、貿易利権争いが管領細川氏と周防大内氏との間で繰り広げられ、これ
が応仁の乱発生の経済的背景を形成した。このことはまた、いつの世にあっても、貨幣
とは罪なものであることを示唆しているのかもしれない。
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