| 第7話 黄金の国「ジパング」と平清盛
中国銭はいつごろから、どのようにしてわが国に流入するようになったの
だろうか。中国貿易の変遷から考えることにしよう。
894年の遣唐使廃止以降、中国との貿易は律令政府により厳しく管理されていた。し
かし、11世紀に入ると、律令政府の権力低下とともに、荘園領主などが来航した宋船
との間で貿易を行うようになり、12世紀後半に至ると、宋代中国との貿易が積極的に
展開された。この傾向は、宋から元への王朝交代や元寇があっても変わらず、鎌倉時代
を通じて日元貿易は活況のうちに続けられた。中国は、当時の高級品であった絹織物
や陶磁器との交換で金(砂金)、水銀などを入手しようとして日本との交易に積極姿勢
で臨んでいた。当時の日本は東アジア地域有数の金産出国であり、金の中国向け輸出高
は年間数千両にも達する大規模なものだった。このため、中国では「日本は黄金に満
ちた豊かな国」という見方が強まり、これがマルコ・ポーロの『東方見聞録』における
黄金の国「ジパング」伝説に繋がった。
わが国の金の産出地域は奥州地方に偏在していたが、そうした金はどのようにして貿
易に振り向けられたのであろうか。奥州で産出された金の多くは、朝廷・貴族への進貢物
あるいは有力社寺に対する寄進物として京都・奈良に集まり、献納された金の売却の場
として京都に金市場が形成され、この市場を通じて輸出用の金が調達されたと考えられ
る。牛若丸(後の源義経)が京都の鞍馬寺から奥州平泉へと逃れるに際し、金売り吉冶
が手助けをしたという『平家物語』の記述は、こうした金流通に関する事実を物語って
いるといえよう。
このように対中国貿易が活発化するなかで12世紀半ばころから銅銭の輸入が始まり、
ほどなく銅銭は中国からの最も重要な輸入物となった。中国銭と金との交換に際しては、
わが国よりもはるかに銅安・金高の中国相場が適用され、交換の利益が多額にのぼった
ことから、中国銭が金との交換物として受け入れられた。そして、貿易利益の獲得
を狙いとして荘園領主、商人や寺社などが競って銅銭を輸入したため、中国銭が日本に
大量流入するようになった。実際、鎌倉時代中期、日本の商船が金を携えて元に渡航し、
銅銭との交易を求めたほか、建長寺、住吉神社、天竜寺などでは造営費捻出のため自ら
貿易船を仕立てて、銅銭輸入に伴う貿易利益の獲得に努めていた。
中国銭がわが国において一般受容性のある貨幣として受け入れられていくためには、
その通用力を強制・保証しうる権威者によって、それが大量に市中に投入されることが
が不可欠となる。このことから考えると、中国銭の交換手段としての利用は、当時、
日宋貿易を掌中に納めるともに軍事・経済面での権威者であった平清盛による大輪田泊
(現神戸港)の築港、蓮華王院(現三十三間堂)の建立、厳島神社の造営といった大型
建設プロジェクトの遂行を契機として始まったと思われる。その後、国内における商業
の発展とともに、中国銭が国内貨幣として広く利用されるようになったといえるのでは
ないか。
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