| 第6話 渡来銭の流入
10世紀末から約200年の間、わが国においてはは米、絹などの物品貨幣が交換手段
として利用されていた。しかし、こうした貨幣相も平安時代末期あるいは12世紀後半
に至り、一変することになった。農業生産力の向上や商品流通の拡大などから耐久性・
分割性・搬送性に優れた金属貨幣に対する需要が高まり、これを背景として、中国から
輸入された銅銭(渡来銭)が交換手段に利用されるようになったのである。この渡来銭の大
部分は当初、皇宋通宝、元祐通宝といった北宋銭が占めていたが、その後、室町時代に
なると永楽通宝、洪武通宝などの明銭も大量に流入した。
中国銭は室町時代中期まで約300年にわたってわが国に流入した後、江戸時代前期ま
で国内貨幣として広く流通した。こうしたなかで、年貢や小作料も渡来銭で納められた
ほか、土地の広さも収穫高を銭貨換算した貫高で表現されるようになった。それでは、
渡来銭が貨幣として利用されるに際し、渡来銭を基準とした各種財物の価値はどのよう
にして決められたのだろうか。「貨幣のない日々」においても、品質に見合った価格付
けや交換取引の実行のため、例えば米1石1貫文(=1,000文)というように標準物を
基準とした估価が名目的に定められていたことを思い出してほしい。この名目的な価値
基準に再び魂が入れられ、それが交換に利用されるようになったのだ。その意味で、こ
こに和同開珎以来のわが国における銭貨の歴史の連続性を見いだすことができるとい
える。
もっとも、渡来銭の国内貨幣としての利用は順調に普及していったとは必ずしもいい
難く、中国銭の大量輸入が始まった当初は摩擦的な軋轢(あつれき)がみられた。治承
3年(1179)6月の『百錬抄巻八』には「このごろ、天下上下病み悩む。これを銭病と
号す」とあるように、銭を基準とする財物の交換取引は朝廷により嫌忌されていたのだ。
実際、建久4年(1193)7月には中国銭を基準とする取引の急増は米や絹を基準とした
旧来からの物価体系を混乱させるとして、宋銭の使用停止が宣下された。しかし、これ
らの措置は貨幣経済の進展を前にしてはなんら効果をあげることができず、嘉禄2年
(1226)には鎌倉幕府も渡来銭の利用を公式に認めるようになった。このような貨幣を
取り巻く環境の変化とともに、古代の物価体系と商品流通構造が終焉を迎える一方、13
世紀後半には渡来銭を基準とした中世の価格体系が成立することになった。
中国銭がわが国で流通するようになった背景としては、平安時代末期の律令政府、鎌
倉・室町幕府とも権力基盤が脆弱で造幣大権を行使しえなかったことや、銭貨の原料と
なる銅が国内で欠乏していたという事情が指摘されることが多い。加えて、宋銭は当時
の中国を中心とする華夷文化圏あるいは東アジア地域での国際通貨であり、日本国内に
おいても無条件で流通しうる権威・信用を有していた。さらに、中国銭の場合、唐代の
開元通宝以来、品位・量目・形状においてほとんど目立った変化がみられず、これが貨
幣としての信認確保に貢献していた点も見逃せない。
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