| 第5話 出挙と質
前回までは古代日本における貨幣事情を述べてきたが、今回は当時の金融取引の実
際とその効果についてみることにしよう。
日本においても古くから、出挙(すいこ)と呼ばれる金融取引が行われていた。これ
は、稲の貸借取引であり、もともとは豊作を祈念して神社に捧げられた初穂を翌春、神
社が種籾として農民に貸し付け、秋の収穫時に利息に相当する利稲を付加して返済させ
るというものだった。米の貸借がなぜ金融取引なのかと訝る向きもあるかもしれない。
しかし、当時は米や絹などの物品貨幣が支配的であったという点を考慮すると、これは
立派な金融取引であるといえよう。
ここで留意を要するのは、出挙は単なる金融取引にとどまらず、次のような目的の同
時達成を目指して編み出された、きわめて巧妙な社会的仕組みでもあったという点であ
る。第1に、農民からみた場合、種籾を貸与してもらえるため、種籾の確保を一切考慮
することなく、収穫米を消費することができた。第2に、天災や飢饉に備えた米の集団
備蓄が制度的に進められることになった。第3に、これが最も重要な論点であるが、神
社からみた場合、ストックとしての富の品質維持が挙げられる。富としての米の価値を
維持していくためには、少なくとも年1回程度は米の入れ替え取引を行う必要があり、
これを農民の利益向上に繋がるような仕組みに仕立てたのが出挙と考えられる。
出挙は、大宝元年(701)に制定された大宝律令により制度化され、国衙(こくが)が
班田農民に春先に貸与した種籾を、収穫時に利子を付加して徴収する制度のことを指す
ようになった。これを公出挙(くすいこ)という。公出挙は、種籾まで食してしまった
農民の救済措置として始まった。しかし、その利息が年5割にものぼる高利であった
ため、次第に税のように強制的なものとなった。各地の国司はこの利息を当初は公共
事業や国分寺の造営費用に充当していたが、やがて自らの懐に入れるようになった。
律令制府では、出挙がその意図とは裏腹に農民を苦しめていることを知り、養老2年
(720)に公出挙の利息を3割にまで引き下げたが、事態の解消までには至らなかった。
平安時代になると、土豪化した在地領主も出挙を行うようになった。これを私出挙(し
すいこ)という。私出挙は半ば強制的に行われたが、その利息は、当然のこととして公
出挙よりもさらに高利であったため、実質的な税として農民を苦しめた。私出挙におい
ては、貸し手の債権保全のため、農民の宅地・奴碑・雑蓄のほか口分田までが質物となっ
た。利息未払いのため土地や家屋を没収された農民や、追い立てから免れるため逃亡す
る農民が後を絶たなかった。平安中期には、債務不履行となった場合、質物の所有権
が債権者に移転する流れ質が一般的になったからだ。そうしたなかで、農民は債務奴隷へ
と墜していった。このような過程を経て律令制度の根幹が動揺する一方、分権化した地
域内において封建領主と農奴を構成要素とする中世封建制度が形成され、交換経済は
土豪が一手に掌握することになったのである。
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