◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第4話 貨幣のない日々

 皇朝十二銭は天徳2年(958)の乾元大宝をもって鋳造停止となった後、永延元年 (987)には銭貨の利用停止が宣言された。その結果、10世紀末から12世紀後半に至 るまでの約200年の間、銭貨は市場から姿を消し、財物や田畑の売買のほか貢納物の納 付に際しては、米や絹布といった物品貨幣が再び利用された。しかし、そうした取引の 多くは、信じられないかもしれないが、引き続き「文」という銭貨単位で表示されてい たのだ。なぜそんなことになったのだろうか。この問題に対する答えの鍵は、平安時代 の商品流通にある。
 当時の商品流通は、その大部分が租庸調など貢納物をめぐってのものであったが、律 令税制の欠陥が「文」という価値基準の名目的な利用を促したのであった。租庸調にお いては、貢納物の種類および納入量が朝廷からこと細かく指定されていたが、その品質 については特段の規定がなかった。このため、経済意識に長けた国司を中心として、税 物の品質差・地域価格差や価格の季節変動から生じた価格裁定機会が積極的に利用され、 徴税した良質品を売却する一方、その代わりに市場で調達した粗悪品を中央政府に貢納 物として納め、差益を獲得しようとする動きが相次いだ。
 これに対し律令制府では、沽価(こか)法の適用復活で対抗した。沽価とは、もとも と税の代物弁済に適用される公定換算率だったが、律令政府では各貢納物について標準 物の価値を銭貨建てで定め、品質格差が納入数量に反映されるよう努めた。例えば、 米の場合、標準物の価格は1石1貫文(1,000文)と定められた。このようにして、銭 貨が流通していないにもかかわらず、財物の価格は銭貨の価値単位である文により表示 されるようになった。しかし、敵もさるものである。たとえば、私腹を肥やした国司と して悪名高い藤原元命(もとなが)は、米と絹について市中相場と沽価との価格差を比 べて絹のほうが儲かると判断すれば、貢納物に絹を指定のうえ沽価で強制的に収納する 一方、中央政府には沽価で納め、差益を稼得したのであった。
 閑話休題。このように国司にとって都合のよい事態は長続きしなかった。平安中期か ら末期にかけて拡大した荘園が変革を促したのだ。諸国は国衙(こくが)領と摂関家・ 寺社を中心とした荘園に二分され、そこから交換取引手段として放出された貢納物を中 心に商品の流通が高まるというかたちで、商品経済が発展してきた。律令税制とは独立 した商品流通が高まるなか、国司による価格裁定取引も縮小を余儀なくされたのである。
 一方、国司に代わって商品流通を支配したのは、国衙領においては目代と呼ばれる土 地の管理を任された下級官僚であり、荘園では摂関家や寺院に寄食する寄人(よりう ど)、寺社に所属する神人(じにん)・供御人(くごにん)などであった。とくに、寄 人・神人・供御人は、院宮諸家寺社の御用を勤めることにより、その加護をえて年貢物 の流通網を形成した。こうした商品流通の高まりを背景として、12世紀後半以降、わ が国においては、持ち運びに便利でかつ耐久性の高い金属貨幣に対する需要が本格的 に発生したのであった。

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